葬儀の深奥に迫り続ける男の波乱万丈人生 70歳、負債5000万円。でも終わってない

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碑文谷さんが生まれたのは1946年1月。団塊の世代が生まれる直前の世代だ。キリスト教の牧師として岩手県一関に赴任していた父親の下、姉と兄が1人ずつの末っ子として幼少期を過ごした。

小学校では、生徒たちが主体的に自治する「児童自治会」という組織を上級生向けに設けており、碑文谷少年も積極的に活動した。世間が戦後民主主義に燃えていた時代ながら、全国でも珍しい取り組みだ。「それがその後の生き方にずいぶん影響を与えているかもしれません」という。

活発な性格は中学に進むと拍車がかかり、バスケットボール部に熱中しながら、弁論部や新聞部、放送演劇、生徒会と、中学校生活のオプションをすべて盛り込んだかのような3年間を過ごす。その勢いのまま、毎年3ケタの東北大合格者を排出する名門高校に入学し、まずまずの成績を残していく。趣味ではとりわけ文学に熱中し、キリスト教神学や哲学書、国内外の小説を読み漁り、自身も『現代詩手帖』(思潮社)の常連投稿者になったりもした。

学生運動に没頭

ここまでははたから見て申し分のないレールを走っているようにみえるが、大学受験の時期になって突然、職員室に呼び出されるようになる。教師たちに期待された東北大法学部を蹴って、プロテスタント系の東京神学大学に進路を絞る決意を固めたためだ。何度も翻意を促されて罵(ののし)られもしたが、心頭していた神学者カール・バルトを学びたい一心から決意は揺るがなかった。

そして、希望していた東京神学大学に入ると学生運動に没頭するようになる。

表面だけどんどん豊かになっていくのが、虚構に見えた(撮影:村田らむ)

「私たちの世代は、真上にいる戦中世代の空気を浴びながら、1955年から始まる経済成長の波にもまれた世代なんです。貧しい戦争の影を引きずっていた世界ががらりと変わっていく様を目の当たりにしてきました。戦争のことを思想的に清算しきらずに表面だけどんどん豊かになっていく。それが虚構に見えてしかたなかった」

大学は自らの意思で学ぶ場であり、教わる場とは思ってもいなかった。だから、カール・バルトは自力で学ぶ。一方で、戦争協力等の矛盾を清算しないでいる権威と映った多くの教授や教団には論争をぶつける。自分のなかで筋が通れば、回り道なしに中央突破する性格はここにきて研ぎ澄まされていった。

反戦運動ではセクト(新左翼党派の一派)にも途中から所属したが、内ゲバ問題を契機に疑問を感じて、大学院に入った頃に内部批判をして脱退。辞める際は会議室内で四方を囲まれ批判されて翻意を促されたが揺るがなかった。その後は思想運動を中心に活動し、東京神学大学全学共闘会議を組織しリーダーとなる。キリスト教会内部で神学批判の論陣を張ること2年。最後は大学側から参加者の除籍などの切り崩しに遭い、敗北にけじめをつけるべく、周囲の反対を押し切って解散宣言をして、大学は中途で去ることになった。

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