「葬儀業界だけをターゲットにしたわけではないんですが、創刊号を業界の人たちにたくさん配布したこともあって、多くの葬儀社の方に支持してもらいました。実際のところ内容を評価して買ってくれていたのは4分の1くらいだったと思います」
刷り部数は公称1万部で、実売はその半分強。雑誌の好調な滑り出しを背景に、創立2年目に表現文化社の共同経営権を獲得し、4年目以降はすべての経営権を握った。スポンサーは発言の自由の邪魔になると考え、創刊当初からのスポンサーが出した分を買い取り、分割返済することになる。碑文谷さんが舵を取る環境が固まった。
そして、1996年8月には冒頭で触れた葬祭ディレクター技能審査制度がスタートする。それを受けて前年11月から『SOGI』と並行して『葬儀概論』の執筆に取りかかり、4カ月で上梓。以降は葬祭ディレクター技能審査試験の問題作成や審査官講習などの実質責任者を20年間務めることになる。資格制度は業界に広がり、「葬祭従事者の資質の向上と社会的地位の向上」(『SOGI』34号より)という狙いどおりの効果を与えていった。
ストレスをため込むほうではなかったが…
と、そんな順調な道を歩んでいる2001年、碑文谷さんの身を異変が襲う。急に活力が湧かなくなり、家に閉じこもり、不眠になった。うつ病だった。
「いろいろな人間関係がストレスになっていたとは思うんだけど、いまだに引き金になった原因はわからないんですよね。私はそんなにため込むほうではなくて、そんな人間でもうつになるんだとびっくりしたのを覚えています」
完治はしなかったが、病気を自覚してからは折り合いの付け方がわかるようになり、まもなく復帰できたという。
碑文谷さんが家から出られない間も、他紙に連載した記事をつなぎ合わせて特集を組むなどして、隔月発行を継続しており、売り上げは安定していた。しかし、徐々に暗雲が立ち込めてくる。
2000年代半ばになると、都心部を中心に葬儀の小規模化が目立つようになり、葬儀業界も従来のやり方では利益が確保しにくくなってきた。そうなると、高価な雑誌の定期購読を続けるのが難しくなる葬儀社も増えてくる。
「最初に祭壇が売れなくなって、棺(ひつぎ)も中国から安価なものが輸入されるようになった。そうなると皆ギリギリでやっているから、必要のないものから削減していくわけです。1冊が高いだけに、1社から購読を切られると大きかったですね」
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