それからは筆名を封印し、編集者として仕事を続けた。籍を置く出版社で教材関連を作りながら、時にほかの出版社からの編集の仕事を請け負うなど、半分フリーランス半分会社員というようなスタンスを確立。大卒初任給が5万~6万円の時代にその3倍程度をコンスタントに稼ぎ、生活は安定した。そして時代は高度経済成長期を過ぎてバブル期に突入する。
葬送事情を伝える雑誌を作るプロジェクト
転機は1990年。44歳のときに訪れる。30代後半のころから管理職的な仕事も掛け持ちせざるをえなくなり、ストレスが大きくなっていたのと、経営者との折り合いが悪化していたのとで、辞め時を考える日々を送っていたときだ。
昔の知り合いから「葬送事情を伝える雑誌を作るプロジェクトがある。スポンサーの手立てもあるから、編集長として参加しないか?」との誘いがきた。退職の手続きをとるのをためらう理由はない。すぐに合流し、ほかから集まった数名のメンバーとともに、プロジェクトのための出版社・表現文化社を設立。封印していた表現者としての筆名も復活させた。
碑文谷さん自身、それまで葬儀に関して特別な思い入れはなかった。ただ、「人間の死とそれにかかわる文化が正当に扱われていないのはおかしい」という気持ちは抱いていたし、ジャーナリスト的な視点ではほとんど手つかずのジャンルであったこともモチベーションになったという。
取材対象に不足なし。しかし、相手は内も外も風通しが極めて悪い厄介な業界だ。
当時、葬送事情というのはいまよりはるかにタブーだった。街を霊柩車が走れば道行く人は親指を隠し、葬式の場では、一人の識者が重ね言葉はNGといったことがまことしやかなマナーとして広まり、帰りに悪霊を祓うため(?)の清めの塩が配られるなど、数々の迷信が育まれたのもこの時期だ。死について考えるのは縁起でもないという風潮の下、葬儀社も世間から“見えない存在”とされていたフシがあり、それを悪用して不誠実な稼ぎ方をしていた業者も少なからずいた。
覚悟して取材に挑んだところ、業界からの向かい風は意外と吹かなかったという。取材拒否の場合も照れて断るというくらいで、大抵の葬儀社や寺院は乗り気な姿勢でインタビューに応じてくれた。
「当時の葬儀業界は差別や偏見の中にあったんですね。そのなかで私たちがちょっとクオリティの高い雑誌を出し、当時『奇妙な雑誌ができた』と新聞や雑誌、テレビなど100媒体以上に取り上げられた。それで『うちの業界にもこんな雑誌ができたんだ』『自分たちの業界を代弁してくれる』と喜ばれてね。結構最初のほうから応援してもらったと記憶しています」
1号につき4800円+税の通常号価格は最初から最後まで変えていない。ただ、内容については、当初から「業界誌は作らない」と決めていた。葬儀業界を代弁するというより、死とそれにまつわる文化について考えるのを主眼としていたが、ある種のステータスとして定期購読契約した葬儀社は多かった。
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