学生時代、留置所には3回入れられた。うちのひとつが碑文谷署で、そのとき署内で「碑文谷署一号」と呼ばれたことが筆名の由来となっている。
「あの頃は留置所に入るのもそんな特別なことじゃなくて、ショックはなかったですね。公安の人が私に張り付いていて、寮を出てきたら『今日はお前をやるぞ』とささやいてきて、案の定逮捕されるとかそんな感じで(笑)。署内では、同房のヤクザの人にその署内特有の布団のたたみ方を教えてもらったりして、いろいろ助けてもらったのを覚えています」
富への渇望はなかった
生活に目を向けると、幼少期から学生時代の途中まで、金銭的に余裕のある時期はまったくなかったという。
「牧師というのは貧困家庭ですから、生活はずっと苦しかったです。大学も米国の宣教師団や日本育英会から奨学金をもらって、アルバイトをしてどうにか通っていたくらいです。ただ、当時は貧しいのが当たり前だったので、あまり気にならなかったですね。皆そうだから」
当時は1964年の東京オリンピックが終わってまもなくの頃。ベトナム戦争が勃発するなどして世界的に政治の季節に入っていた。モノがあふれる高度経済成長の空気は1970年代半ばまではまだ少し間があった。学生の絶対数は少なく、苦学生も珍しくなかった。飲み屋街には皿洗いする代わりにタダで飲ませてくれるような店があり、珈琲1杯で何時間も粘れるジャズ喫茶も多かった。碑文谷さんが語る学生時代の日本は、おカネがなくてもモノがなくても、それなりに楽しめる空気を感じさせた。
そうした時代と思想の背景から、社会に出ても富への渇望はなかった。大学院時代から執筆活動を続けていた関係から、教材関係の出版社に勤めるようになったが、生活費を稼ぐという意識はあまり湧いてこなかったと振り返る。
「子供も生まれて、家族を食わせていかなきゃならないというのはあったけれど、勤めて生活の基盤を作るのは第一ではなかったですね。勤めていてもう嫌になったとき、ルーチンワークの中に取り込まれて抜け出せなくなるのが嫌だったから」
しかし、社会活動の中心に据えていたキリスト教関連の執筆も28歳のころに辞めてしまう。
「闘争敗北という挫折感もあったし、表現することに限界を感じていたところもある。思想的にもう一つ掘り下げないと表現者としてやっていけないと思った。大学を辞めていった仲間たちのこともあって、もう続けられなかった」
東京神学大学全学共闘会議の解散後、70人の学生が大学を去った。そのうち何人かは牧師になったが、別の道に行くことになった人も相当数いる。いろいろなことが肩にのしかかった。
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