「会社と一緒に何もなくなっちゃったけれど、命まで取られるわけではないですからね。書く者としては辞めたつもりはさらさらなくて。だから当時もあんまり深刻にはならなかったと思います」
碑文谷さんは一貫して「書く者」だった。高校時代に詩を投稿していた頃から、あるいは中学校で新聞部に所属していた頃から。書く者だから、学生運動も政治的な振る舞い以上に思想を書きつづることに重きを置いたし、28歳のときに断筆したのもアイデンティティの根幹ゆえに中途半端が許せなかったゆえではないかと思う。そして、表現文化社の経営者でありながらも、経営よりも取材と執筆に注力した結果が、会社の倒産と、倒産してもなお心が折れていない現在につながっている気がする。
書く者としての挑戦
「自分が40歳のときは、正直なところ、70歳は終わった人間だと思っていました。だけど、まだやれると思っています。ただね、新しい情報を処理する力はどんどん落ちていくでしょう。実際、10年前に70代以上の学者が新しい情報の理解力に大きく欠けて無残な発言をしたというのを見ている。自分もそうならないという保証はない。
だから、新しいことを取材したり考察したりするのは若い人に譲って、これまで得た知見を総合的に見て全体像を語るとか思想的に詰めるとか、そういう方向に行くかもしれません。葬送ジャーナリストと名乗るのはそろそろ辞めて、葬送評論家にしようかなとは真剣に考えてますね」
うつ病は現在も寛解しておらず、持病として折り合いをつけながら向き合っている。目立った悪化はなく、執筆活動を続けることに支障はない。『SOGI』休刊後も他誌への寄稿や講演などを続けている碑文谷さんをみて、去っていった人のうち何人かはすでに交流を再開しているという。
書く者としての挑戦はまだまだ終わらない。
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