梅原大吾「勝ち続けるプロゲーマー」が誓う掟 すべてのきっかけと動機は「人」だった
一度ゲームの世界から去り、こうして再びこの世界で生きていけるのも、周りで応援してくれる人たちの存在があったから、そしてこの「道」を用意してくれたからこそなんです。多くの人の支えなしでは、今の自分はあり得なかったと思っています。
誰にも言えないプレッシャーを抱えて
最初に、ぼくを応援してくれたのは家族でした。ぼくの生まれは母と同じ青森県なのですが、姉と親父は東京です。親父はちょっと面白い人で、旅行中に母の実家である青森が気に入り、突然「いいとこだな、住むぞ!」となったらしく、仕事も辞めてしばらく青森に住むことに。その時に生まれたのがぼくでした。
行ったのも気まぐれ、帰るのも気まぐれで、ぼくが8歳の時に、親父が「そろそろいいかな」とか言って、それからはずっと東京です。七つ離れた姉は、高校受験と重なるタイミングだったらしく、大変な思いをさせられたみたいで……。
――個性的なお父様だったんですね。
そういう風変わりな親父を筆頭に、それに付き合ってしまう看護士の母、優等生タイプの姉に、正反対のやんちゃ坊主という個性的な梅原家でしたが、奇跡的に家族仲はよかったですね(笑)。
何でもよくできた姉のおかげで、「自分は(優等生にならなくても)いいかな」と勝手に考えていて、好きなことばかりして過ごしていました。一度姉に言われたのは、「お前が迷わずに好きなことに進めたのは、 私のおかげだぞ」と。確かにその通りだと思っています。
ぼくがゲームをはじめるきっかけになったのも姉で、当時高価だったファミコンを買ってもらうために、「ふたりで一緒のクリスマスプレゼントにしてもらおう」と結託したところからですね。「あんたも欲しいでしょ」って、そそのかされたも同然でしたが(笑)。ただ、買ってもらったソフトは普通に『スーパーマリオブラザーズ』で、いわゆるゲームマニアでもなかったし、11歳で『ストリートファイターⅡ』に出合うまでは、普通のゲーム好きな子どもでした。
そのころは、将来世界一「ケンカが強い人」「大発明をする偉い人」「世の中を楽しませる面白い人」のどれかになれたらいいなと思っていました。これは親父の影響で、ぼくが物心ついたときから、「なんでもいいから、誰にも負けないものを身につけろ。男なら世界一になれ」と、繰り返し言われていたからなんです。
――唯一無二になれ、と。
そんなこと言われてもガキのころだから、どれだけの選択肢があるかなんてわからなくて、親父に「何になればいいの?」と聞くわけです。ところが、返事は「それは自分で考えろ」「お前が見つけた道を全力で突き進むなら、いくらでもサポートしてやる」と、決して何かを押し付けるようなことはしませんでした。
普通子どもって「一日楽しかったな、終わり。めでたしめでたし」で、全然OKなはずなんですけど、自分の場合は「世界一」の存在にならなければいけないのに「ああ、今日も“ムダ”に一日を過ごしてしまった」と、いつもまでたっても進むべき道が見つからないことに罪悪感を覚える毎日でした。