残念なリーダーは「傲慢」で他人を頼れない 項羽と劉邦はどこで明暗が分かれたのか

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一方、劉邦と最後まで覇権を争った項羽は、対照的な人物だった。家柄もよく、武力に優れ、見た目にも王の風格があった。個人と個人の才を比べれば、劉邦をはるかに凌ぐ人物だったらしいが、人物像をひと言でいえば傲の一字だった。傲慢な人には、他人はよろこんでついては来ない。したがって「人を通じて」大きな仕事をなすことはできないのである。

漢王朝を立てた後、劉邦はなぜ自分が項羽に勝てたのかについてこう論評した。

「自分は、張良(ちょうりょう)(劉邦の軍師のひとり)のように策を帷幕(いばく)の中に巡らし、勝ちを千里の外に決することはできない。蕭何(しょうか)(行政官)のように民を慰撫(いぶ)して補給を途絶えさせず、民を安心させることはできない。韓信(かんしん)(将軍のひとり)のように軍を率いて戦いに勝つことはできない。

だが、自分は張良、蕭何、韓信という『漢の三傑』を使いこなせた。反対に、項羽はというと、范増(はんぞう)(項羽の軍師)ひとりすら、うまく使いこなすことができなかった。これが、項羽が滅亡し、自分が天下を勝ち取った理由だ」と。

実力者だから敗れた項羽

劉邦が漢王朝を立てることができたのは、足らざるところを他人の力をもって補うことができたからである。

一方、実力、家柄とも劉邦に勝っていたのみならず、自他共に当代一の英雄と認めていた項羽が敗れたのはなぜか。その理由は、ただひとつ、自分ひとりの力を恃(たの)み、他人の意見や諫言を聞き入れず、有能な部下がいてもそれを使いこなせなかったからだと、劉邦は述懐している。

項羽は部下の諫言、意見を聴かなかった。項羽が咸陽(かんよう)を捨て、故郷に戻りたがったとき、それを諫(いさ)めた韓生という側近は、後に讒言(ざんげん)の罪を追及され煮殺(にころ)された。劉邦が、一時項羽の軍門に下ったとき、項羽の側近中の側近で功績の高かった范増の意見(劉邦を殺すこと)さえいれなかった。

そして范増は、「豎子(じゅし)ともに謀るに足らず(考えの浅い小僧とでは、とても重大なことなど相談できない)」と、ついに項羽を見限って去ってしまう。振り向けば、項羽の後ろには誰もついて来ていなかった。これでは統一王朝どころか、故郷の楚国さえ治めることはできない。項羽が敗れたとき、項羽の陣を包囲し攻め滅ぼしたのは、ほかならぬ彼の故郷の楚の国の民であった。

前述したとおり、漢の高祖劉邦は、軍を率いては韓信に及ばず、治世(ちせい)では蕭何に劣り、戦略では張良の才を大きく下回った。

しかし、劉邦の優れていた点は、君主とは、部下と才を競う存在ではなく、才を用いるのが仕事と、道理がわかっていたことである。漢は劉邦の亡き後も続き、前漢時代は214年、後漢時代を加えると400年を超える長期の王朝となった。

一方、歴史上には才に長けた英雄も多い。秦の始皇帝は、いわずと知れた中国最初の統一王朝を築いた人物だ。文字や距離や重さの計測単位も統一している。しかし、他人力には乏しく、秦の繁栄は始皇帝一代限りであった。

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