「盛り土問題」責任者たちの「罪」とは一体何か

「正義」は多くの怨念の上に成り立っている

11月25日、「豊洲盛り土問題」に関係する東京都庁幹部18人が処分されたというニュースがありました。

「盛り土問題」の処分は、法的に決着をつけただけで、けっして内面的な正しさに基づいた裁きではありません。写真は8月時点(撮影:尾形文繁)

あれは、法的に決着をつけただけのことであり、たぶん処分された本人は「これまでどおりにやってきただけなのに」と不満たらたらのことでしょう。

終戦後GHQによって極東裁判が行われたときに「上官の命令に従ったたけなのに」という抗弁がいっさい認められなかった情景を思い起こしてしまいました。しかし、彼らが復讐しようとしても、今の時代は法的手段しか残されていない。

上辺の「正義」ですべてが動いている

こうして、法治国家においては、外形的な「正義」の次元においてすべてが動いている。まあ都庁の幹部が減給くらいの処分を受けてもまったく同情しませんが、犯罪被害者、裁判による敗訴者、いや犯罪者などをはじめとして、膨大な人々がこうした「正義」に不満を抱きながら、抗弁することもできずに死んでいくのだと痛感します。

そして、これこそ、社会的には解決が見いだされないからこそ(私とて「復讐」をそのまま復活させよと主張しているわけではない)、哲学の課題なのであり、哲学者が思索すべきことなのです。

最後に、私が最も怒りを覚えたニュースから。それは、東日本大震災のときに石巻市の大川小学校では、生徒と先生は直ちに校庭に避難していたのに、そして裏山にすぐ登れたのに、なんとそれから45分も経ってバスで避難先に向かった途中で津波に襲われて23人の生徒が犠牲になったという事件です。第1審の仙台地裁は学校側に過失を認め、原告側の勝訴になった、ということはどうでもいい。

私が怒るのは、学校側の集団主義であり、画一主義であり、安全主義であり、どこからも批判されないようにとの自己防衛主義です。こうした主義の連鎖によって、あらゆる観点からすべての生徒を安全に避難させることを考えているうちに、刻々と時間が経ち、大量の犠牲者が発生した。

すべての経験は、厳密には「初めて」であって、そのときとっさにどうするかがすべての先生の肩にかかっている。なぜ裏山に避難させなかったのか?急勾配で怪我するから?1人2人の生徒が大怪我をしてもいいのです。全校生徒を確認してから避難するというのも、バカげている。次々に、手当たり次第に生徒たちを避難させればいい。

その結果、さしあたり行方不明者が何十人出てもかまわない。死んだ子の親たちは、死ぬまで学校や先生を恨むでしょうし、決して赦すことはないでしょう。私はあえて言いますが、少なからぬ親はこの無念さを具体的に先生にぶつけて「復讐」できたら、どんなにいいことか、と思っているに違いない(私ならそうです)。

近代刑法は「復讐から正義へ」と歩んできました。この歩みは、社会の安定(安寧)に寄与しましたが、人間の自然の感情に逆らうものであり、復讐の手段を取り上げられた者は、大きな傷を抱いたまま納得しないで死んでいく。復讐を復活させよというのではなく、この「正義」という美名は、膨大な人の苦悩や怨念を犠牲にして成立している、復讐と同じくらい野蛮な原理であることを知っておく必要があります。そして、まさに「ここ」から哲学が始まるのです。

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