「盛り土問題」責任者たちの「罪」とは一体何か 「正義」は多くの怨念の上に成り立っている

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すなわち、「なぜ、人を殺してはならないのか?」「なぜ、強姦してはならないのか?」「なぜ、盗んではならないのか?」「なぜ、弱者を保護しなくてはならないのか?」「なぜ、ルールを守らなくてはならないのか?」「なぜ、力によってではなく言論によって紛争を解決しなければならないのか?」「なぜ、人間は平等であるべきなのか?」「なせ、基本的人権を尊重すべきなのか?」と真剣に問うこと。

ここで直ちに気づくように、現代日本では、こう「問う」ことそのものが嫌悪される。さらに言えば、すでに非道徳的、あるいは反抗的、非人間的、あるいは悪魔的だとすらみなされる。政治家だったら、当然のごとく「失言」になり、直ちに撤回しなければ、政治生命が危うくなる。まことに暴力的な事態です。いいですか?女性を差別することに賛成ではなく、ただ「なぜ、女性を差別してはならないのですか?」と問うこと自体が、その場の空気を汚し厳しいとがめを受けるのです。これって、「天皇って、本当に現人神(あらひとがみ)なんですか?」とか「なぜ、天皇を尊敬しなければならないんですか?」と問うたら、身に危険が及んだ時代と実は変わりがない。

「見れども見えず、聞けども聞こえず」

それでいて、現代日本では言論の自由が保障されている、とのたまう御仁がたくさんいるのですから、おかしくてたまらない。まさに、現代日本には「見れども見えず、聞けども聞こえず」という人々が跋扈(ばっこ)しているのですね。

というわけで、道徳について哲学するとは、「道徳的によい」とはいかなることかを「自分で」納得するまで探究することにほかならない。そして、私は、前回も述べたとおり、「自他の幸福よりも真実を優先する」というカントの倫理学は(少なくともほかのいかなる倫理学より)正しいと確信し、それを40年くらいずっと探究し、それをなるべく実践しようとしている次第です。

人間として「身の危険があっても、真実を語ること」が道徳的によいことであり、それは揺らぐことのない真実だと言うと、「いや、そんなことほとんどの場合、守れない」「『真実をバラしたら、殺すぞ!』と脅迫されれば、ほとんどの人は、おじけづき、ウソを語る、あるいは沈黙してしまうではないか」という反論が起こる。カントはこのことを骨の髄まで知っていた。

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