この1カ月あまりの間に、大方の専門家の予想を裏切って、米国大統領にトランプ氏が選出されたことや、韓国の朴大統領の友人が大きく政治の中枢に介入していたことなど、ビッグニュースが飛び交っています。それについてのコメントは有識者に任せることにして、これらに比べると一見「小さいなあ」という印象を拭えない問題を扱います。
それは、ここずっと追究している「哲学」と「社会(世間)」の問題、もっと具体的に言いますと、「道徳的よさ」と「社会的(あるいは法的)正義」の問題であり、実のところ米国大統領選挙より、一国の政治的腐敗より重大な問題だと確信しております。
普通の現代日本人が「哲学」や「道徳」という名の下に理解していることは、おそらく「本物の哲学」――それがあるかどうかは疑わしいので、ここではソクラテスからカントまでの西洋哲学本流としましょう――からすると、まったくの誤りです。たぶん、(本物の)哲学のみが、世に言う「道徳」とか「倫理」から解放された空間にいる。
「道徳的よさ」は、今や、人を殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない……等々の十戒以来の古典的道徳に、弱者を保護すること、ルールを守ること、力によってではなく言論によって紛争を解決すること、人間の平等、基本的人権を尊重すること……等々の近代的道徳が付け加わって「常識」を形成している。
しかし、この常識を鵜呑みにすることは、まったく哲学的ではなく、むしろ非哲学的態度だということです。
道徳を“嘲笑”してみることが重要だ
パスカルは『パンセ』の中で「哲学を嘲笑すること、それが真に哲学することだ」と言っていますが、まさにそのとおりであって、この文章の真意は「いわゆる哲学を嘲笑すること、それが真に哲学することだ」ということです。「道徳」については、その前に「真の道徳は、道徳を嘲笑する」とはっきり書いている。この2つを組み合わせると、道徳について哲学するとは、みんなが疑わない(フリをしている)道徳にそのまま従うことではなく、それを「嘲笑する」こと、少なくとも疑問視することと言えましょう。
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