一方、子育ても「初めて」の連続に立ち向かうしかなく、「悩む暇もなかった」と言う。
「育児書を読む時間もなかったので、授乳イコール母乳だと信じ込んでいて、復帰直後は、娘に母乳をやるために、お昼休みを活用して、タクシーで託児所に通っていました。自分の昼ごはん? そんなの、適当です。自分は牛かな、ミルク製造機かな?と思ったこともあります(笑)」
当時、会社は開業したての六本木ヒルズに移転したばかり。周囲の同僚は、“ヒルズランチ”を楽しんでいた時期だ。
「独身の同僚には自由があるのに、子どもがある私には、いつも必ずタイムリミットがある。自由な人がうらやましいと思ったことは、数知れずありました」
そのときの会社には、ワーキングマザーどころか女性社員の数自体が少なく、周囲には古賀さんが「子持ち」であることさえわかっていない人もいた。また、古賀さんもあえて、自分に乳飲み子がいることをアピールしなかった。過酷な育児と仕事の両立は、孤独な戦いだった。
そして、子どもが授乳期を過ぎ、やっと離乳食を食べられるようになると、一息つくどころか、また別の苦労がやってきた。娘さんの、「ご飯作り」だ。
「娘が3歳になるまでは、無認可の託児所に預けていたので、給食はありませんでした。だから、全部、お弁当。しかも、お昼と夜の2食です。営業の仕事が忙しく、平日の夜の半分は会食の予定が入っていましたが、残りの半分は、もっぱら、おかず作りでした。会食、料理、会食、料理の連続で、自分の時間など、まったくありませんでしたね」
休む間もなく無我夢中だったあのときを、古賀さんはこう振り返る。
「人間の無知ってすごいですね。そんな生活に疑問もありませんでした。子育てってこんなものなのかなと。人間って、やらなきゃいけないと思ったら、やっちゃうもの。『やらない』という選択肢がなければ、頑張れちゃうものなんですね」
実家まで子どもを”ピストン輸送”
同じ年で会社員の夫は育児に協力的で、娘さんの保育園の送り迎えも、かなり請け負ってくれた。それでも、仕事の繁忙期は、夫婦2人の力だけでは、手が回りきらない。そんなときは、神戸にいる古賀さんの両親の助けを借りた。
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