予期せぬ妊娠は、古賀さんを動揺させた。
「一瞬、これからもう、何もできなくなっちゃうのかと不安になりました」
だが、すぐさま、考え方を切り替えたと言う。
「子どもがいるから何もできないと決めつけるのはナンセンス。私は子どもを産んでも、自分がやりたいことをやるのを、何もあきらめないし、何も変えないで行こうと決めたんです」
インターネットの世界は日進月歩だから、「長々と休んでいたら、浦島太郎になってしまう」。だから、産む3週間前まで働いて、出産後はわずか2カ月で復帰したという。
「産休とか育休がいつから始まっていつまで取れるとか、そんなのどうでもいいと、無関心でした。保育園にしても同じ。私の仕事は9時から5時では成り立たたないので、認可だろうか無認可だろうが、延長保育のオプションがあるところしか興味がありませんでした」
給料が保育料でなくなったって、かまわない――。人から、何のために働くの? だの、小さい子供を預けてかわいそう、と思われたっていい。
そんな覚悟だったという。
ヒルズランチより、母乳の運搬
2004年6月、古賀さんが職場復帰すると、今までとは違う仕事が待っていた。
「それまで、私はホームページの制作営業でした。ところが、子どもを産んだ頃から、会社がたくさんの会社を買収するようになり、新しく買ったあるメディアの広告営業をやる人がいないからやってくれと、ポーンと任されたのです」
同じ営業といえども、制作を受注する営業と、広告を売る営業とでは、仕事の中身もやり方もまるで違う。
「そのため、広告ビジネスの潮流だとか、仁義の切り方、あるいは、どんな商品を作ったら売れるのかなど、ちんぷんかんぷんでした。見ず知らずの広告代理店の人にアポを取り、広告営業に必要なすべてを『教えてください』と言って回りましたね」
こうして、古賀さんは、たった1人で、会社にとって初の広告営業組織をイチから作っていった。
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