ごはん、食べよか。こう庭の風景を見ておると、なんとなく自然の理法というようなものが働いておるなあという感じがするね。いま新しい葉が出ておるけど、やがて濃い緑になって、枝は伸び、年々(ねんねん)歳々(さいさい)同じからずやな。
その自然の理法というようなものはなんかということは、ようわからんけど、万物を万物たらしめている力というか法則というか、そういうもんやろうな。水が高いところから低いところへ流れるのも、物が上から下へ落ちるのも、まあ、自然の理法というもんやろう。そういう理法が厳然として、この宇宙万物に働いておる。そういう自然の理法というものの特質とはなにかと言えば、それは「生成発展」ということやと、わしは思っておるんや。
生成発展こそ自然の理法である
なあ、この世は無常と言うけれど、それは常ではないということやろ。常ではないということは、動いておるということや。宇宙全体、万物ことごとくが常に動いておる。そこで、その動き方をどうみるか。衰退とみるか、発展とみるか、それは人間の自由ということになるわな。わしは「生成発展」であるとみるわけや。
なぜなら、きみ、第一そう考えたほうが、人間にとって幸せにつながるやないか。ますます発展する。そういう理法のなかで生きておるとすれば、そこに人間の努力の意義も出てくるわな。けど、そうではない。衰退であると。衰退していくんだ。だんだんと衰退していくんだとするならば、人間はどんなに努力をしても意味がないということになるわな。
うん、死か、それも生成発展のひとつの姿やな。やがてこの新緑の葉も秋が来るとともに枯れ葉になって、散っていくわね。けどまた、次の春には木々は芽を吹いて、そして茂っていく。人間も個々の姿を見れば、一枚の葉のように死んで、この世から去って行くということになるけれど、人間全体からすれば、それがまた生成発展のひとつの姿ということになるわな。
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