なぜなら過去、高校時代に日本スプリント界のエース候補と騒がれるような活躍をした選手たちが、彗星のように現れては消えていったからだ。彼らも今の桐生のように多くのメディアに追いかけられ、過熱ともいえる報道をされてきた。
著者と同世代にも“スーパー高校生”と騒がれたスプリンターがいた。添上高校の髙橋和裕だ。1994年、髙橋は高校生ながら日本選手権の200mを制すと、インターハイの近畿大会200mで日本記録(当時)を樹立。インターハイでは100mで10秒24の高校記録(当時)をマークして、史上初のスプリント4冠(100m、200m、4×100mリレー、4×400mリレー)に輝いた。高校卒業後は名門・早稲田大学に進学。社会人でも競技生活を送ったが、100mと200mでは高校時代の記録を破ることができなかった。
髙橋だけでなく、高校時代にスプリンターとして日本記録に到達した選手たちは、同じような結末をたどっている。1987年に手動で100mの日本タイ記録となる10秒1をマークした中道貴之、1990年に100m10秒27の日本記録を樹立した宮田英明も大学では不発だった。1984年に100m10秒34の日本タイ記録をマークした不破弘樹だけは、法政大学に進学した後も自己ベストを更新したが、0.01秒の記録を短縮するのに3年という月日を要している。
なぜ彼らが高校時代の記録を更新するのに、これだけ苦しんだのか。そこにはビジネスにも生かされる教訓が潜んでいる。スプリント種目で好タイムが誕生するには、さまざまな要素が絡み合っているが、高校時代の記録を超えられない大きな理由は、パフォーマンスの「再現力」が不足していたからだ。
ケガに泣くアスリートもいれば、余分な筋力がついたことで本来の動きを見失う場合もある。自分の思い描く走りを何度でも再現できないと、“本物”とは言えない。彼らの高校時代の記録は自力で出したというよりも、「出てしまった」という部分が大きかった。
100mや200mは気象条件などがタイムに大きく影響してくる種目。実力的には不足していたのに、さまざまな“追い風”が、自分でも想像できなかった好タイムに結び付いてしまうことがある。だからこそ、大学でフィジカル的に成長して、高校時代より高いレベルの練習ができたとしても、それを明確な結果(タイム)として表現することが非常に難しいのだ。
スプリンターの走りの感覚というのは本当に繊細なもので、わずかな動きのミスが記録に影響してくる。加えて、気温、風、トラックの硬度、一緒に走る相手など、毎回、走る条件が変わる中で、戦わなければいけない。少なくとも、「なぜ速いのか?」を、自分自身で理解していなければ、同じようなパフォーマンスを再現することはできない。成功の理由を説明できるのか。それはビジネスでも同じだろう。
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