カツユキさんの願いはただひとつ。「労働条件が守られたところで働きたい」。当たり前の望みなのに、時折、底知れない恐怖にさいなまれる。「新卒でもない。2度も就職に失敗している。こんな僕にはもう2度と働ける場所なんてないんじゃないでしょうか」。
東京駅の周辺で話を聞き終わったとき、日はすっかり暮れていた。駅前の交差点。カツユキさんが、いわゆる「大手企業」が多く入るビル群の明かりを見上げながらつぶやくように言った。
「僕には手の届かない世界です。あそこにいる人たちはみんな日本のために、誇りを持って働いているんでしょうね」
苦しみ、戸惑い、自らの可能性を閉じていく
彼の胸中に去来したのが、あこがれなのか、悔しさなのか。大企業で働く人々が皆、「日本のために誇りを持って働いている」のかどうか。どちらも私にはわからない。
いずれにしても、手が届かなかったことや、かなわなかったことが、貧しさのせいだと言い切れるならまだいい。だが、多くはカツユキさんのように、どこまでが貧困のせいで、どこまでが自らの能力と頑張りの足りなさが原因なのか判然としないことに、苦しみ、戸惑うのだろう。彼らには、希望に向かって頑張るだけでよかったためしなどないし、それゆえに成功体験も少なすぎる。そして、中には、自分でも気がつかぬうちに「頑張っても無理」「できなかった自分が悪い」と自らの可能性を閉じていく人もいる。
貧困の連鎖とは、静かなあきらめの連鎖でもあるのかもしれない。
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