3.11から2年後、千年規模で問う復興のかたち
歴史映画の名作が教える、あるべき共同体とのつきあい方

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現金給付か、共同体維持か?『雨月物語』が描いた選択

映画「雨月物語」監督の評伝、佐藤忠男・著 『溝口健二の世界』(平凡社、2006年)

こんなとき、いつも思い出す映画がある。上田秋成を原作に溝口健二が撮った、1953年の『雨月物語』だ。

賤ヶ岳合戦の頃、戦乱と略奪を生き延びようとする琵琶湖北岸の寒村を舞台にした怪奇譚だが、実はそのストーリーはまさしく、人の幸せを保証するのは「現金か、土地か」という問題に沿って展開する。

森雅之扮する主人公は、農村で暮らしつつ焼きものづくりで生計を得ている陶工だ。しかし、都市に出て商品を売ることで手に入る貨幣の魅力の虜になった結果、市場の顧客として知り合った京マチ子と道ならぬ恋に落ち、彼女の邸宅での豪奢な生活に惹かれて、自分の家へ帰るのを忘れてしまう。

しかし彼女は、実は織田信長に滅ぼされた朽木氏の怨霊だったことが判明。命からがら故郷に逃げ戻った際には、自分の妻もまた、商売からの帰路に戦乱に巻き込まれて、命を落としていた……というのが、物語の骨子になる。

一見すると、これはきわめてわかりやすい教訓話だ。森雅之を誘惑して故郷の家族を忘れさせた、京マチ子が演ずる怨霊とは、貨幣(現金)が持っている魔力の象徴であり、それは当初は、人々に自由と繁栄を約束するかに見える。

しかし、彼女はしょせん幽霊=実体のない価値でしかない。だから、われわれはそのような偽物の価値に惑わされることなく、生まれ育った家庭や農村といった、「共同体」に宿る本物の価値を守り続けなければならない。

興味深いのは、これがまさしく戦国時代の焦土からの「復興」にあたって、日本人が行った選択と一致していることだ。

戦乱を生き抜くために惣村の結合が生まれ、年貢の納付と軍事的な保護とをバーターにすることで大名の地域支配が確立し、それは江戸時代にイエやムラが支えた、生活の安定につながっていく。

しかし、東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』が「戦国時代は人々を自由にしたか」と問いかけるように、これは貨幣を武器にして自由に諸国を横断しながら生きることのできた、中世日本の開放感が失われてゆく過程でもあった。

土地や物産を現金に換えることで、人々はそれを持ち運び、違うものと取り換える選択権を持つ。年貢を銭ではなく米で納める形に戻した徳川幕府は、その権利を抑圧し、生まれたイエやムラを離れない限りでのみ、人々を社会的に包摂する体制だった。

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