どちらも「幽霊」だとの自覚が生む寛容さ
そもそも、かように貨幣とは交換不可能なものとされた、家族や農村=「共同体」の価値とは、本当に真正なものなのだろうか。
実は『雨月物語』は、ここで巧みなしかけを用意している。
故郷に帰った森雅之を迎える妻の田中絹代もまた、この時すでに殺されている「幽霊」であり、映画は末尾、幽霊としての彼女のナレーションと、しかしその実在を信じてお墓に食べ物を供える、健気な遺児の姿で閉じられるのだ。
「現に売れているから売れる」という貨幣的な価値が、実体のない幽霊だとの主張はよく耳にする。しかし共同体の人間関係も、「現に信頼されているから信頼する」という形で存続しており、ひとたびこの循環に疑念が差し挟まれれば、脆くも霧消してしまう点では同様だ。
哲学者デリダは『マルクスの亡霊たち』で、「幽霊」=人々の相互行為を通じてのみ存在せしめられる現象の方が、しばしば実在する人間以上に社会を動かすという逆説を、『共産党宣言』と『ハムレット』に共通のストーリーとして指摘した。それはまさしく『雨月物語』にも、同作が描いた日本の「復興」にもあてはまる。
自分の信じるものだけが「実在」し、それ以外の価値基準は「偽物」だとする発想は、社会を不寛容にする。逆に貨幣であれ共同体であれ、それが実際には幽霊かもしれないと自覚することで、人は初めて歩み寄ることができる。
震災復興として再び日本人の前に訪れた選択の岐路、自身の意向とは異なる決定に傷つく人々がどこかにいるはずだ。
しかし、そのことさえ忘れなければ、私たちはまた、何度でもやりなおせる。
(担当者通信欄)
『「原発避難」論』では、東日本大震災後のさまざまな避難の事例を挙げ、「難民」としての避難民を考えます。『溝口健二の世界』では、このコラムで取り上げられた「雨月物語」が、“伝統演劇の形式と主題の映画化”として語られます(実はカバー写真にも「雨月物語」が)。ぜひ、併せてお読みになってみてください。
「共同体」について考えてみると、その対になる「共同体外」に思いがいたります。共同体によってもたらされると信じられてきたものが、共同体外の力や声によっても、また生み出されるとしたら、復興における選択肢は格段に増えてくるのかもしれません。実際に、行政、NPO、営利企業、個人と、元の共同体の内外を問わず、さまざまな主体が復興に取り組んでおり、ニュースで取り上げられる頻度がそれほどではなくとも、情報を得る回路は多くあります。引き続き注視していきたいと思います。
さて、與那覇潤先生の「歴史になる一歩手前」最新記事は2013年4月1日(月)発売の「週刊東洋経済(特集は、給料大格差時代)」に掲載!
【会社は「学校の延長」か? 新卒採用の季節に改めて考える】
4月1日、いよいよ本格化する就職活動。 いまや多くの企業で当たり前の新卒一括採用も、始まった当初は、エリート限定のものだった?それが多くの人に適用されるようになった今、職場に止まらず社会全体を覆う、“学校化”について考えます!
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