──『明治維新という過ち』の導入部は廃仏毀釈です。
日本人でも廃仏毀釈を知らない人はたくさんいる。もともと日本人ほど自国の歴史を知らない国民はいないと感じる。明治維新はたかだか150年前のこと。歴史に入るのかどうかの時期でさえある。身近な例を引けば、私の父親は大正4(1915)年生まれ。同年に新選組の生き残りの永倉新八が亡くなり、私の母は大正9年生まれ。ほぼ3代前の時代であり、いわばついこの間のことだ。それでも正しく伝わっていない。
私は小学、中学を琵琶湖のほとりにある彦根の里山で過ごした。昭和20年代から30年代前半の生活は、江戸期と変わらない。扇風機なし、もちろん冷蔵庫もこたつもなし。夏はうちわ、冬は火鉢。それだけだった。集落の中に現金で物を買える店は一軒もない。物財のない生活が当たり前だった。
情緒、主観の時代へ
──読者が読みたくなった「気分」の変化とは。
時代の「気分」の反映だ。社会学者の言うパラダイムシフトであり、社会・文化の価値観がガラッと変わってきている。そこに乗った。
──価値観が変わった?
物の見方を客観と主観とに分けたときに、今までは客観が勝っていた。今は主観が優位に立つ。別の言葉で言えば、合理あるいは合理性の価値が下がって、情緒、精神性の価値が上がっている。もともと歴史の主流は合理と精神性の繰り返し。今、近代合理主義の時代、別の言い方をすれば物財が貴重だった時代から、情緒、主観の時代、言い換えれば納得や好みが重視される時代になっている。江戸期が見直されていることによく表れている。
──江戸期見直し?
たとえば、極めて日本的なものが見直されている。日本酒、和服。街中の一杯飲み屋が繁盛し、酒蔵で働きたい若い人が増えている。弁当箱は世界的になり、風呂敷が復権し、手ぬぐいも人気で、巾着を使うのがかっこいいという現象もある。
これらの現象は近代欧州文明の終わりとつながっている。あと10年はかからないと思うが、世界遺産は価値喪失が近づいている。あの価値は欧州的価値観で決めているからだ。京都の有名料理店が集まって、ミシュランに評価されることを拒否してもいる。そういう時代の「気分」がなければ、この本はこれほど読まれなかった。
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