「失われた古き良き時代」のシンボル、なのか
同じ松竹でも小津安二郎のそれに比べると寂しくはあったが、昨年は映画監督・木下惠介の生誕100年として数々の企画が組まれた。
もっとも、同時代には黒澤明と好一対と目され、かつて佐藤忠男氏や長部日出雄氏、石原郁子氏など、錚々たる面子が一書をものしながらも今は絶版のため、書店で手に入る木下論は佐々木徹『木下恵介の世界 愛の痛みの美学』くらいのようである。
同書は冒頭、木下がかくも忘れ去られた理由を「貧しいがゆえに寄り添って生きていた家族」が「映画のなかに自分たちと同じ姿を見、共感した時代」の終焉に求めている。
黒澤・木下はじめ戦後日本映画の黄金時代といえば1950年代だが、その後の高度成長の実現、そして到来した大衆消費社会や趣味の個人化の流れの下で、支えあいながら困難な生活をひたむきに生きる市井の日本人を描く木下の世界は、決定的に古臭くなってしまったということだ。
黒澤明の「時代劇」がスピルバーグやルーカスに引用されることでグローバルな娯楽産業のコンテンツとしても延命できたのに対し、木下の「現代劇」は戦中から敗戦直後というきわめて限られた期間の日本に密着しすぎてしまった分、その「現代性」は長続きしなかったのだと、まずはいえるのかもしれない。
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