コミュニティ・ソングの懐かしさと恐ろしさ
「苦しくてもみんなで生き抜いた昭和」の描き手として回顧される反面、日本人が流す涙にその苦難すべて(たとえば戦争責任も含めて)を浄化してしまう表現の「甘さ」が批判もされてきた木下惠介。しかし実は彼こそが日本という共同体の「怖さ」を、唱歌の歌い手とそこから排除される人々との対照を通じて、常に主題にしていたのかもしれない。
かような着想を与えてくれる音楽史の成果が、渡辺裕『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』である。キャッチアップ型の近代化を強いられたわが国では特に、音楽とは芸術である以上に国家・地域・工場・学校といった単位での共同性を作り出す「コミュニティ・ソング」であり、だからこそ明治政府は憲法や議会に10年も先んじて音楽取調掛を設置(1879年)したのだった。
むろん同書が詳論するように、国民は受け身で政府に与えられた歌だけを歌ったのではない。それこそ木下が『女の園』(1954年)や『春の夢』(1960年)で描いたように、学生歌や労働歌が生み出す「階級」という共同性によって国家に立ち向かった時代もあった。
しかし高度成長が完成し、木下が映画界から身を引いていた70年代初頭、流行歌は集団の斉唱ではなく個人によって歌われるものとなり、左右を問わず歌唱を通じた共同体は解体してゆく。
同書を講読した授業で、「仰げば尊し」を知らない学生が実際に存在したように、今となれば『二十四の瞳』の子供たちの小豆島が、懐かしく映るのも事実だ。しかし、そのような共同性を取り戻そうとする試みが、いったい何の蓋を開けることになるのか――。
かような問いを教えてくれるという意味で、木下惠介の映画は、永遠に現代であり新しい。
素材提供:松竹株式会社「木下惠介生誕100周年プロジェクト」
http://www.shochiku.co.jp/kinoshita/
【初出:2013.1.12「週刊東洋経済(メイカーズ革命)」】
(担当者通信欄)
『カルメン純情す』は、前年の作品『カルメン故郷に帰る』の続編に当たるラブコメディです。ストリッパーのリリィ・カルメンが前衛芸術家の須藤と出会い、ひと目惚れ。その須藤がなかなかのダメンズで、笑いに加えイラっとさせられるシーンも満載です。単純にコメディとして楽しむこともできるのですが、しばしば斜めになるカメラアングルのほのめかす不穏さ、そしてなにより劇中の音楽に注意を向けながら観賞してみてください。
音楽のもつある種暴力的なまでの影響力、そして自分にとってのコミュニティ・ソングは何か、そんなところに思いを馳せながら『カルメン故郷に帰る』『カルメン純情す』と順に見て、これが『二十四の瞳』と同じ監督の作品なのか!と驚きました。
さて、與那覇潤先生の「歴史になる一歩手前」最新記事は2013年2月4日(月)発売の「週刊東洋経済(特集は、海外移住&投資)」に掲載!
【二大政党制は終わったのか? 甦れ、普通選挙時代の夢と教訓】
戦前の二大政党制を振り返り、今の政治を考える。近日の自民党・民主党間での政権継受の不手際を、戦前以来の伝統として諦めるわけにはいかない!?
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら