パイオニアまで救うのか? 問題山積の公的資金による資本増強
体力超えたテレビ参入 04年ピークに急悪化
プラズマの不振と自動車不況による車載機器事業の急失速が重なったパイオニアは、09年3月期に売上高が前期から3割近く急減。従業員と拠点の大幅削減で早期希望退職費用や設備減損を計上し、最終損失額は過去最悪の1305億円に上った。巨額損失は資本を毀損。さらに10年3月期も赤字必至で、現在1100億円強の純資産は1年後に約4分の1に急落する見通しだ。
直近だけを切り取れば、パイオニアは公的資金を注入する要件を満たしている。だが車載機器や家電の業界関係者はそろって言う。「パイオニアは世界不況がやってくるずっと前から悪かった。今の苦境は、プラズマ事業に対する数年間の経営ミスによるものだろう」。
音響機器メーカーとして歩んできたパイオニアは1979年、レーザーディスク(LD)を中心とした映像分野にいち早く事業を広げ、オーディオ不況を生き残った。だが映像に足を踏み入れた後も、パイオニアにとってテレビは“禁制品”だった。LDの事業化を決断した中興の祖、2代目社長の故・石塚庸三氏が参入に反対していたからだ。
山一証券の電機アナリストだった中川竹見・ゆたか証券顧問は、石塚氏に81年ごろ会った時を覚えている。「当時、LDがヒットし、一時は株価でソニーを上回ったにもかかわらず、『うちは少し有名になったかもしれないが、しょせんステレオの中小企業。潰れても日本経済に影響するわけでなく、国も助けてくれない。だからこそ潰れないよう経営努力するのだ』と石塚さんは厳しい顔で言った」。東芝出身の石塚氏は、家電の花であるテレビに、電機大手がいかに巨額投資を行うか熟知しており、パイオニアで同じ投資はできないと予見したのだろう。
だが石塚氏が在任中の82年に急逝した後、徐々に“禁制品”のタガが外れる。ブラウン管テレビ、プロジェクションディスプレイを製品化。アップル互換パソコンに慌しく参入・撤退する中で、97年、世界初の民生プラズマテレビを発売する。
主要部材の内製化を進めるため、自社のパネル工場も山梨に立ち上げ、パネル生産で先行する富士通とNECを追いかけた。4代目社長の伊藤周男氏は「オーディオ機器メーカーのイメージから脱皮する」と宣言し、デジタル家電を軸に年商1兆円突破を目指した。