61. 紅白のフィナーレは『蛍の光』と決まっているが例外もあった。東京オリンピックを翌年に控えた第14回のフィナーレ曲は『東京五輪音頭』。
62. 歌手の出場辞退が話題になったのは、江利チエミが出場歌手発表当日に出場依頼を固辞した昭和45年が最初。
63. 1973年に『神田川』が大ヒットしたかぐや姫は、歌詞の「クレパス」は商品名であることから「クレヨン」に変えるよう依頼があったため出場辞退したといわれる。
64. 1991年第42回ではHOUND DOGが歌唱曲の選曲をめぐり番組側とトラブルとなり出場を辞退した。
65. Mr.Childrenは出場辞退を続けてきたが、北京五輪のテーマソングを担当した2008年に限り出場を受け入れた。
66. 視聴者からの苦情が殺到したアーティストの筆頭は全裸に見える肌色のボディスーツで登場したDJ OZMA。
67. 紅白の舞台を最後に引退・解散したのは第8回の小畑実、第35回の都はるみ(のちに復帰)、第43回のチェッカーズ、第48回のX-JAPAN(のちに再結成)。
68. 1988年第39回に、初出場を果たした光GENJIのバックで踊っていたのは当時10代のSMAP。
69. 司会は通常、紅組司会・白組司会・総合司会と分担され、組司会は出場歌手の紹介、総合司会は全体進行を行なう。
70. 最も多く司会を務めたのはNHKアナウンサー(当時)の宮田輝で計15回。
71. NHKアナウンサー以外で初めて組司会に抜擢されたのは第28回の坂本九と水前寺清子。
72. 民放のアナウンサー出身者で、初めて司会を務めたのは古舘伊知郎。民放女子アナ出身者が選出された例はない。
73. 歌手兼司会としての最多出場記録は中居正広の6回。
最年少司会者は、当時19歳の松たか子
74. 最年少司会者は第47回当時19歳の松たか子。
75. 総合司会はNHKアナウンサーが務めるのが定例だが、第34回はタモリが起用された。
76. 初出場にして司会も務めたのは第37回の斉藤由貴。
77. 第32回から会場の観客が審査に参加し、双眼鏡を持ち目視で集計する日本野鳥の会と珠算日本一が登場した。
78. 1993年から2002年までは麻布大学野鳥研究部が双眼鏡による集計を担当していた。
79. 2013年には麻布大学野鳥研究部による集計が復活した。
80. 2003年の第54回では紅組に票を入れた審査員が0。観客や視聴者の判定も白組優勢だったため、ボールで票を数える際、一つも投げるボールがないという事態となった。
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