大河ドラマ「豊臣兄弟!」桶狭間の合戦前夜!危機を前にした織田信長の振る舞いを文献をもとに再検証
さて、織田方の丸根砦(愛知県名古屋市緑区)の佐久間盛重と鷲津砦(同上)の織田秀敏から「今川方は18日の夜に入り、大高城へ兵粮を入れ、19日朝には潮の干満を考えて、砦の奪取に動くは必定」との注進が清洲城の織田信長のもとに寄せられたのは、18日の夕方のことでした。
『信長公記』(陽明本)では、信長は今川軍の動きを伝えられても、その夜に軍議を開かなかったとあります。戦に関する話はせずに、様々な世間の雑談をするばかり。
挙句の果てには「既に深夜となったので、帰宅せよ」と信長は家老衆に告げたとのこと。緊急事態であるのに余りに呑気な信長の対応に家老衆は「運が傾く時には日頃の知恵が曇るというが、これはその事を言うのか」と信長を嘲弄しつつ、家路についたといいます。
夜明け方、佐久間盛重と織田秀敏から、丸根砦と鷲津砦に今川軍が攻めかかってきたとの報告がありました。大河ドラマや時代劇でもよく描かれていますが、この時、信長は「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度、生を得て滅せぬ者のあるべきか」と敦盛の舞を舞い、出陣していくのです。
出陣の当初、信長の周りには小姓衆5人しかいなかったと言います。それでも気にせず、信長は馬で駆けたのでした。軍議を開かず、敦盛を舞い、早朝に独断で颯爽と出陣していく信長。まるでドラマを観ているようですが、我々の信長のイメージにピッタリな『信長公記』の逸話であります。
「はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練」
ちなみに信長と対面したこともあるポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは信長のことを「はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練」「彼(信長)はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた」(『フロイス日本史』)と評していますので、それにも当てはまりそうなエピソードです。


















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