「信長の号令に迷惑千万」大反発も計算のうち。織田信長が家臣に"あえて無理難題"をふっかけた驚きの理由《大河ドラマ「豊臣兄弟!」》
敵対する美濃の斎藤義龍が急死
永禄3年(1560)5月、織田信長は桶狭間の合戦において、駿河の今川義元を討ち取ります。今川方の大軍を破ることができたのは幸運でしたが、翌年、信長にとってさらなる「幸運」が舞い込みます。永禄4年(1561)5月、美濃の斎藤義龍(道三の子)が30代の若さで急死したのです。
義龍は、父・斎藤道三と対立し、これを敗死させて美濃の主となった人物でした。信長は道三の娘(濃姫)を妻に迎えており、道三は舅でした。それだけではなく「うつけ」と尾張国内外で噂された信長の才能を見抜いたのが道三であり、信長の良き理解者であったのです。
信長に援軍を送ってくれたこともありました。道三が息子の義龍と対立し、合戦となった際(1556年、長良川の戦い)には、道三救援のために自ら出陣しています。
小競り合いとなりますが、道三討死と聞き、信長は自分が殿(しんがり)を務めつつ、退却することになるのです。その後、義龍は信長の庶兄・信広と結んで、織田家の争いに介入したこともありました。この企ては失敗に終わりますが。
それはさておき、急死した義龍の後継となったのは、その嫡男・斎藤龍興です。龍興の生年については諸説あり定かではありませんが、天文10年代の生まれとされ、まだ10代前半の若者でした。
信長は義龍の死を聞くと、素早く動き、木曽川を越えて、西美濃に攻め入っています(5月13日)。
斎藤方も長井甲斐守・日比野下野守を大将として兵を、墨俣(岐阜県安八郡)から森部(岐阜県安八郡)にまで進出させます。


















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