「信長の号令に迷惑千万」大反発も計算のうち。織田信長が家臣に"あえて無理難題"をふっかけた驚きの理由《大河ドラマ「豊臣兄弟!」》
信長は「これぞ、好機である」と言い(『信長公記』)、両軍は合戦となるのです。槍を打ち合う戦いが数時間続きます。この合戦で、斎藤方の長井氏・日比野氏始め、170余人が織田方により討ち取られました。
この時、斎藤方は墨俣を放棄したと考えられます。『信長公記』には、信長が墨俣に堅固な要害を築くことを命じたと記されています。
墨俣に砦は築かれたようですが、斎藤氏は5月23日、本拠の井口城(稲葉山城)から軍勢を繰り出し、十四条(岐阜県本巣市)に着陣させます。
十四条は墨俣の北方にありました。信長は墨俣からすぐに駆けつけ、朝方、合戦となります。
ところがこの十四条合戦で織田信益が討ち取られたため、織田方はいったん、兵を退くのです。斎藤方は北軽海まで進出し、そこに陣を布きます。この様子を見た信長は、西軽海にまで兵を出し、敵方と向き合うのです。そして夜に合戦となるのですが、結局、決着は付かず、斎藤勢は夜のうちに撤兵。信長は夜明けまで在陣していますが、その後、墨俣に引き上げるのでした。
家臣の不満を巧みにコントロール
永禄6年(1563)、信長は居城を清洲から小牧山(愛知県小牧市)に移します。これは美濃攻略のための布石と言われています。
しかし当初、信長は小牧山への移転を考えてはいなかったようです。信長は二の宮山(愛知県犬山市)への築城を最初は考えていたのでした。「家宅を二の宮山に移転させよ」と命じる信長。さらには「ここの峰、あそこの谷には誰々が作れ」と屋敷の割り当てをも命じたのです。
ところが命じられた家臣たちは移転に不満たらたらでした。二の宮が山中の高所にあったからです。「この山中に清洲の家宅を移すというのは、まことに難儀」と信長の突然の号令に迷惑していたのです。家臣たちの不満を知った信長が打った次の一手が小牧山への移転でした。
小牧山は山の麓にまで川が続いており、資材を運ぶのに適した場所だったのです。小牧山への移転を聞いた家臣らは、喜んで引っ越しを行ったとのこと(『信長公記』)。


















無料会員登録はこちら
ログインはこちら