父は総合病院の副院長…医学部3浪で「うつ」状態の彼の部屋に訪問者「手に5000円を握りしめさせて…」人生救った思いがけない言葉とは

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平さんは、山形県に、4人兄弟の末っ子として生まれ育ち、3歳のときに父親を残して他県に引っ越してからはそこで育ちました。

「父親は大きい総合病院の副院長でしたが、のちに院長になりました。『医者の子どもあるある』だと思うのですが、3歳頃から近所のおばさんに『光源ちゃんも将来は立派なお医者さんになるんでしょ?』と聞かれていたので、『うん』と答えていました。そう答えれば大人が喜ぶと思っていたんです。兄や姉は誰も医師にならなかったように、医師になるように周囲から強制されたことはありませんが、僕は小さい頃からそのやりとりを繰り返しているうちに『自分は医師にならねばならぬ』と思うようになりました」

医者になると言われてうんと言い始めた幼少期(写真:平さん提供)
医者になる?と聞かれて「うん」と言いはじめた幼少期(写真:平さん提供)

小学生のときから学力は高く、算数・数学がとても好きだった平さんは、公立中学校時代には校内で1~2位をとるようになります。

地元の名門校であった公立高校に進学した平さん。しかし、進学して間もない高校1年生の5月に父親が胃がんになったことで、大きく状況が変化しました。

父親が倒れ、一人暮らしを始めてから成績が急降下

「父親は手術で胃を全摘したのですが、術後の容態が思わしくなかったため、母親は父親のいる山形に行ってしまったんです。2人の兄と姉はそれぞれ12歳・11歳・9歳離れていて、すでに実家にはいなかったので、思わぬ状況で僕は一人暮らしを始めることになってしまいました」

父親の病状の心配に加えて、今までは当然のようにされていた食事や洗濯などが一気に新たなタスクとしてのしかかった平さんは、勉強に身が入らなくなってしまいます。入学時には127/360位だった成績は、1年生の2学期ごろには350位くらいに低下してしまい、低空飛行は卒業まで続きました。

「医者にならなきゃならないとは思っていたので、焦って我流で勉強していました。ですが、深夜の24時くらいまで勉強していたので、疲れてしまって朝起きたら昼の12時とかになっていて、不貞腐れて学校を休んだりすることを繰り返しました。結果、欠席が1年で50日、遅刻が150日という感じの落ちこぼれの生活が3年続いてしまいました」

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