こちらについては、考え方が個人主義とは対照的なものになる。
社会は実体のないものではなく、実体があるもの。そして社会は個人の集合体以上の存在であるということだ。これは目に見えるものであって、実質的な影響力を持っている。社会なく個人が存在することは不可能であり、個人の存在の意味はいつも社会のなかで決められる。
つまり、社会という全体の利益と存続のためなら、個人に対する権利侵害はある程度正当化されるということである。
さて、どうお感じだろうか?
なお、個人の権利と社会の利益がぶつかったら、誰の味方をするべきなのだろう? この点について考えるために、著者は2つの例を紹介している。
例1 水害対策の対立「10分で洪水が押し寄せます」
そうなると多くの人的被害が予想されるが、高い建物が多いので被害はある程度避けることができるかもしれない。とはいえ財産や施設への莫大な被害は避けられないだろう。産業活動がしばらく停止し、安全保障面で重要な施設も水に浸かってしまう。街としての規模を考えると、A市のみならず国家全体の損失となる可能性がある。
しかし、A市の損害を防ぐ方法があるのだという。A市に向かって押し寄せている洪水が必ず通る道があるため、その道のダムを爆破して洪水の流れを変えられれば、A市はさほどの被害を受けずにすむというわけだ。
ただし問題もある。ダムが破壊されて流れが変わった先に、B村という小さな村があるのだ。B村は50世帯ほどが集まっており、おもに老人が暮らす農村だ。
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