典型的なのは「地震鯰」だ。民俗学者の宮田登は、「日本のフォークロアは、変災の予知を魚族の王たちが行なってくれることを語ってくれる。それはかつて柳田国男が『物言ふ魚』として指摘したことであった」と述べている(『江戸のはやり神』ちくま学芸文庫)。
その好例として「江戸の俗信仰として流行した地震鯰」を挙げ、「大変災による不可抗力なカタストロフィを招来するものが、それを予知する鯰であると同時に、鯰そのものだと信じられているのである」と述べた。
鯰は子どもを通じて危機を知らせることもあれば、人に化けて直接告げることもあり、そのバリエーションは多様である。
地震は世の中の好転への予兆?
日本の災害史研究が専門の歴史学者の北原糸子は、「地震鯰絵」を読み解く中で、共通して見られるのは、「地震とは神の御使、或いは神そのものの大鯰が動くことであり」「(神の)善き計いを世の中の好転への予兆とする」考え方であったという(『安政大地震と民衆』三一書房)。これは「世直し」というよりも、受動的なスタンスの「世直り」といえる。
北原は、「災害という異常事態がもたらした非日常状態」に着目した上で、幕府による救済活動や町人や武家、寺院による施しなどが行われ、「一種の理想郷に近いという状態」が出現したことが背景にあるとする。
もちろん、人が死に火災が町をのみ込む悲劇を少しも消し去りはしないが、「鯰絵における災害=地震は決して禍一色で捉えられてはいず、世直り、万代楽、御代万代、といった言葉に表れているような現実(災害後出現した社会)の謳歌なのである」と。
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