飯舘村から避難した「母ちゃんたち」の自立への一歩--そごう柏店「までい着」販売会までの足取りを追う
東日本大震災の発生から1年が経過しようとしている。政府による復興政策の実行はあまりにも遅く、被災地では住民による必死の生活立て直し努力が続いている。原発被害を受けた福島県の自治体の1つ、飯舘村では、仮設住宅に避難中の一部住民が新たな仕事に向かい始め、3月10、11日には、首都圏の百貨店、そごう柏店で商品販売会を開催するまでにこぎ着けた。
販売会の正式名称は「東日本大震災自立支援:福島県飯舘村の手作りの復興ブランド『までい着』販売会」、主催は「いいたてカーネーションの会」。「までい」とは、「手間隙を惜しまず」「丁寧に」「心をこめて」「時間をかけて」「じっくりと」などの意味を帯びた飯舘の言葉だ。この販売会の開催に向け、住民はどんな思いを抱いてきたのか。決して平坦ではない自助努力の足取りを追いながら、紹介したい。
今年2月下旬、飯舘村の村民、佐野ハツノさん(上写真)は「原発避難」という過酷な事実に打ちのめされそうになっていた。心が痛いほどわかっていることなのに、あらためて愕然としていた。
東日本大震災に伴って発生した東電福島第一原発事故は、放射性物質を広範囲に発散させた。原発から40キロメートルも離れている内陸の農村、飯舘村もその被害から逃れられなかった。太平洋から吹き込むこの地方独特の冷たい風に乗って、放射性物質が村に振りまかれた。
政府による計画的避難区域の指定、村からの退去……。専業農家である佐野さん一家の生活も、激しくねじ曲げられた。日常なのか非日常なのか、それすらもわからない手探りの毎日。ともに農業経営をしていた長男は、仕事を求め、夏前には妻と子どもを連れて栃木県に移った。引っ越しの別れ際、小学生の孫は蔵の中から下駄を見つけ出し、記念に持っていこうとしまい込んだ。佐野さんは、「蔵にあるものは、全部、お前のものになるんだよ」と、小学生の孫に諭しながら涙を流した。
7月28日、佐野さん夫妻と高齢の母親も家を出た。移り住んだのは、福島市松川町に設置された松川工業団地第一仮設住宅団地。仮の住まいである。
持ち前の気丈さと前向きさを買われて、110戸の村民家庭が暮らす仮設住宅団地の管理人を任された。そんな佐野さんですら、心が折れそうな日々。夏は過ぎ、東北の短い秋も過ぎ去り、厳しい冬が避難民の生活を脅かしている。そんな避難生活に入って7カ月の月日に押し流されたある日、佐野さんがあらためて愕然とさせられたのは、「本当に村民がバラバラに散ってしまっている」という現実に対してだった。