どのようなときであれ、自分が脱いだ履物をそろえられる程度のゆとりは持ちたいものです。それは、自分の行いを顧みるためのゆとりであり、未来へ続く道を間違えず歩んでいるかを確認するためのゆとりなのです。
これは「心にゆとりを持ちたいと思うなら、履物をそろえるところからはじめなさい」という教えでもあります。
特に、人目につくかもしれない玄関にある履物の乱れも気にならないようでは、自分の心を整えられるはずがありません。日々の何気ない言葉遣いや立ち居振るまいも、見直しましょう。
箍とは、何事も心を込めて丁寧に行うよう、努めること。丁寧な暮らしは、自分の足元から始まるのです。
そしてもう1つ、誰もが実践できる「箍(たが)」を挙げるならば、掃除だと思います。部屋の掃除もさることながら、心の掃除も、同じぐらい大切です。
「後ろめたさ」を払拭するには
人は生きている限り、さまざまな失敗や過ちを犯します。誰かを傷つけることもあれば、自分自身の期待に応えられずに落胆することもあるでしょう。
人間に完璧を求めるのは現実的ではありません。仏教では、人間はみな「三毒」にとらわれている、と考えられています。
三毒とは、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)のこと。貪は何でも欲しがる「むさぼり」の心、瞋はつまらないことで爆発する「怒り」の心、痴は、物事の正しい判断ができない「おろか」な心のことです。
禅の修行は、これら三毒の克服のためでもあるのです。
しかしながら同時に、私たちのなかには「よく生きよう」という清らかな意志があります。だからこそ、その意志が果たせなかったときに、私たちは心が汚れたかのような、後ろめたさを覚えるのでしょう。
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