人気バンド「弁護士になった初期メンバー」の追憶 2月に解散した「フジファブリック」の軌跡を思う

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ピアノが弾ける小俣さんがキーボードとして加わるかたちで、高校の同級生で後の「富士ファブリック」を結成。

「高1のころはユニコーンやイエモンをコピーして、それがだんだんとアレンジを加えたカバーをするようになり、高2から学園祭などでライブもするようになりました。オリジナルをやるようになったのは高3のころ。正彦が曲作りを始めたのがきっかけです」

メンバーの実家の「家業」がバンド名にもなったのは有名な話だ。そこで4人は音楽を練習した。

富士吉田市の街並み(写真:弁護士ドットコム)

「みんなマクドナルドやピザの配達のバイトをしていました。あとは正彦だけプレステの鉄拳という格闘技ゲームが弱くて、麻雀もやらない。とにかく音楽に打ち込んでいた」

小俣さんは楽しそうに「正彦は授業中よく寝ていた」と振り返る。

受験期になって一時休止していた活動は、東京に上京して再開されたが、のちにさまざまな理由で、志村さん以外の3人はバンドを抜けた。

ジャズやソウル、ブラジル音楽が好きな小俣さんと、J-ROCKでプロになりたい志村さんとの間で温度差があったという。

「バンドに注目するメジャーやインディーズのレーベルもあって、音楽でメシを食おうとしていた正彦の楽曲が認められ始めていたところです。中途半端に片手間ではできず、抜けなければいけないと考えました」

友だちをずっと尊重してくれる…「負けてられない」

創立メンバーとしての活動は終わって、それから志村さんと「フジファブリック」の活躍は周知の通りだ。小俣さんたちとの関係は変わらずに続いていった。

ときおり志村さんから著作権のことを尋ねられ、司法試験の勉強中の小俣さんが答えることもあったという。ただ、小俣さんから音楽の話題に踏み込むことはなかった。

「正彦は私と一緒にバンドをやっているときに私の意見を尊重してくれて。バンドを抜けた私の意見でも耳を傾けるかもしれない、そういう奴なんです。正彦がやっている音楽は正彦とメンバーさんたちが良いと思ってやっているものですから、音楽の話はあまりしませんでした」

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