進学校の子の親ほど「子供の将来」に苦しむ矛盾 「将来への備え」という現代病にかかっている
僕の授業は、これからの将来に必要なことを教えようとはしていないんです。「できる/できない」さえもどうでもいい。「学び」というのは、これまでなんとも思っていなかったそのまったく同じものが、あるきっかけで全然違って見えるようになるということです。
例えば、あるものに対してコンプレックスを持っていた子がいる。その子が、あるきっかけでそれが自分の強みだと気づいたりする。自分を見る視点が変わることで、見える世界が変わってくる。その過程にあるのが「学び」なんです。何かをできるようにしたいわけじゃないんです。特別なものを身につけなくてもいい。ただ世界が変わって見える。僕はそれをやりたいんです。
鳥羽:ただ世界が変わって見える、それが「学び」である。深く同意します。
不登校の子はある種、自立している
井本:そうは言っても、進学校では難しい面もあります。学歴そのものに本質的な価値はないとわかってはいても、本質的な勉強を選び取るのはなかなかできることではありません。このままがんばれば、いわゆる「良い学校」に進める保証を手にしながら、それを手放すのって、すごく怖いことなんですよ。本人はもちろん保護者も同じです。
その点では、例えば不登校の子はそこから離れてしまっている分、社会的な価値をすでに手放してるから、ある種、自立をしてるんです。
鳥羽:確かに、それは感じることが多いです。不登校の子は、担任や友達との不和から行きたいのに行けないケースもあれば、学校つまんないやと積極的に行かないことを選んだ子もいます。後者は特に、社会規範を手放してしまった強さを感じることが多々あります。かえって、学校にちゃんと適応しているように見える子のなかに苦しさを見出すことはありますよね。
井本:そうですね。進学校のマジメな子は、通俗的な価値基準を捨てられなくて苦しんでるケースが多いと思います。そういう子はおそらく受験をやめられない。「いもいも」に通う生徒の保護者にこう言われたことがありました。「栄光学園のお母さんたちは、子どもの将来を心配しないでいいから羨ましいわ」と。
でも、現実は真逆です。子どもの将来に関しては、むしろ進学校の保護者のほうが苦しんでいる。学歴のような世間的評価を手放すのが怖いからです。「せっかく栄光に入ったのに『自分だけの学び』なんてやっていていいのか?」とためらってしまう。子どもも身動きが取れなくなって、受験のための勉強しかできなくなる。
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