監督人生は13人からの出発 長崎県サッカー協会会長・小嶺忠敏氏①

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こみね・ただとし 1945年生まれ。島原商業高校、国見高校で教員・サッカー部監督を務め、全国高校サッカー選手権大会の6回を含む全国大会17回優勝。高木琢也、大久保嘉人など多くの代表選手を育成。現長崎総合科学大学教授、長崎県サッカー協会会長など。

大学を卒業した1968年に母校・島原商業高校サッカー部の監督になった。私の在校時、島商サッカー部は九州で強豪だったが、それは九州ではまだサッカーが盛んでなかったから。当時県予選には8チームしか参加していなかった。ただ、私が赴任したとき、サッカー部員は13名。男子生徒の多くは島原工業高校に進学し、島商は女子校みたいになっていた。

チームを強くするには選手がいないと始まらないと、島原以外からも生徒を集めた。当初は私の自宅で下宿、後に寮を借りた。とにかく強くしてやりたい一心だった。

あるとき、一人の生徒が「先生、練習ばかりでは面白くない。試合をたくさんしたほうがいい」と言い出した。長崎の田舎では練習試合も難しい。翌日から大型免許を取りに行った。大型免許は取ったが、自動車を持っていなかったから、ホテルや建設会社や幼稚園からバスを借りて、週末に遠征に行くようになった。

学校や親はすぐに「やめちまえ」となる

最近は小学生チームでもバスで遠征するけど、当時は異常ですよ。校長から呼ばれて「君が事故を起こしたら、君がクビになるのはいいが、俺までクビになる」と止められたこともある。教師としては失格かもしれないが、遠征をやめたらチームは強くならないので継続した。

 夏休みに関西などへも遠征していると、だんだんと力がついてきた。77年の岡山の高校総体でとうとう優勝した。小学校、中学校、高校、大学の全カテゴリーで初めて九州の学校が優勝した。全国大会の優勝旗が関門海峡を渡ったのです。

新婚当初から下宿生を受け入れたし、女房や女房の母親も生徒たちの世話をした。私も盆正月、春休みも夏休みも冬休みもなかったが、きついと思ったことは一度もない。3人いる子供の授業参観も運動会も行ったことがないが、親が一生懸命にやっている姿を見せれば子供は育つ。

先日、部活動の遠征でのバスの事故で生徒が亡くなる事故が他県で起きた。全国のテレビ局から「どう思うか」と取材があった。私はバスの遠征を始めた先駆者だから、事故のことを言われるのはいちばんつらいし、申し訳ないとも思う。

対策としては、専門の運転手を付けることと、最大限の保険に入ること。でも、専門家を付けたからといって被害に遭わないわけではない。世間から問題視されると学校や親はすぐに「やめちまえ」となるのが時代の流れ。でも、それでいいのか。プレー中にケガをすることもあるサッカーはできなくなってしまう。

週刊東洋経済編集部
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