「同志社蹴って地元で進学」彼が下した決断の背景 60年の人生に大きな影響を与えた浪人生活

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2年生に上がっても勉強時間をより確保し、順位は3位前後をキープ。最終的には学年で23/450番まで順位をあげることができました。

このころには小学校の先生になるという夢を抱いて、北海道教育大学教育学部札幌分校を第1志望にした山西さん。志望校も射程圏内に入ったかと思われましたが、高校3年生に入ってから状況が一変します。

まさかのスランプに突入

「高3の6月から、大スランプに陥ってしまいました。ノートをきちんと作って勉強しても、頭に入らず抜け落ちてしまいました。当時はもう、大学受験どころか、卒業すら怪しいと思うほど勉強ができなくなりました。最後までそのスランプの原因がわからないまま、共通1次試験を受けたのですが、538/1000点しか取れませんでした」

国立大学も私立大学も、どこを受験しても合格が難しい状態であったため、志望校より少し入りやすい北海道教育大学教育学部釧路分校(現:釧路校)を受けたものの、結局1次試験の点数が尾を引いて落ちてしまいました。

「(遠方で)合格発表を見にいくことができないので、電報を頼んだのですが、『クシロシツゲンニ、ナミタカシ。ゴメンネ。』と書かれて届きました。不合格の通知だったのです」

こうして山西さんは、原因不明のスランプに陥ったまま、現役の受験を終えました。

浪人を決断した山西さんは、札幌予備学院(現・河合塾札幌校)に通って浪人生活を決意します。その理由を聞くと、「大学には絶対行きたかったから」と答えてくれました。

「小学校教員の資格をとりたかったので、大学には行きたいと思っていました。宅浪という選択もあったのですが、自分だけで勉強をするのは(ノウハウがなくて)きつく、予備校に頼ったのです。

札幌予備学院の授業料は当時33万円でした。当時は1年間の国立大学の入学金と、授業料を合わせると36万円くらいの時代だったので、大金です。親にお願いして、銀行を2つ回って自分でお金を下ろし、予備校に通わせてもらいました」

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