しかし、慶応でA判定が取れるほどの成績だった山西さんが、なぜ現役時代、「スランプ」に陥り受験を失敗したのでしょうか。その理由を聞いたところ、「理解がおろそかになったこと」と、「文系物理で沼にはまったこと」を挙げてくれました。
「現役のときは教科書を写しながら、シャープペンシルと赤・青の鉛筆で綺麗にノートを取ることに意識しすぎていました。見やすいのですが、綺麗に書くことに集中してしまい、理解するまでにはいかなかったのです。
また、3年の初めに授業で文系物理を選択したのですが、それがまったくわからなくなって、到底受験で使えるレベルではなくなりました。10月にどうしても無理だと思って、受験科目を生物に変えたのですが、学校で受ける授業自体は変えられなかったので効率が悪かったです」
そうしてスランプを乗り越えた山西さんは、この年の共通1次試験では前年度より170点上昇し、708/1000点を記録。
直前まで北海道大学を受けたいという気持ちはあったものの、昔からの自身の夢を優先して北海道教育大学教育学部札幌分校、同志社大学の商学部、北海学園大学の法学部を受験し、見事、すべての大学に合格しました。
しかし、合格はしたものの、希望したコースには進めなかったそうです。
同志社と北海道教育大で悩んだ末に…
「(北海道)教育大より同志社のほうが発表が早かったので、合格したときは泣いて喜びました。親もとても喜んでくれましたし、学校全体で盛り上げてくれましたね。ですが、肝心の(北海道)教育大の受験では、得意だった数学で内接円の計算を失敗してしまったんです。
それがあってか、第2志望だった養護学校教員養成課程特殊教育学専攻(当時)には合格しましたが、第1志望だった小学校教員養成課程(当時)には受かりませんでした」
幸い、合格した課程でも小学校教諭1級を取得することはできました。一方で、同志社大学への進学も悩んだ山西さん。父親と相談し、自分のやりたいことを考慮した結果、やはり北海道教育大学札幌分校に進むことを選びました。
「親父は酪農家の次男坊で、石川県から北海道へ屯田兵でやってきた家庭の苦労人でした。私は浪人時代に朝6時ごろに起きて、予備校に行って帰ってきて、23時まで勉強していたのですが、父親と同じくらい勉強(仕事)しているぞと思えたと同時に、こういうふうに稼いで育ててくれたんだと父親を尊敬し、感謝できるようになったのです。
父は『(同志社に)行きたいなら行かしてやる、家を売ってでもお金を出してやる』『4年間はお前の人生だが、卒業してからもお前の人生だぞ』と言ってくれました。ただ、私立で下宿代もかかるうえ、商学部の勉強には関心はないのに、ネームバリューだけで行くのは違うと思い、自宅から通える国立大の教育大に進んで、勉強をしようと思いました」
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