山西さんは、1964年、北海道札幌市で自動車会社に勤務する父親と電電公社の電話交換手をしていた母親のもとに生まれました。
小学校2年生のときに稚内、中学校1年生の2学期に栗山町、中学3年生で札幌、というように、父親の転勤に合わせて北海道内を転々とする生活を送ります。
小学校時代の成績はよかったものの、教育熱心な母親と、仕事熱心な父親に支えられていた部分も大きかったようです。
「われわれの時代は塾に行くのはずるいという風潮があり、勉強は自分でやるものでした。私は長男で期待されていたこともあり、母親に勉強を教えてもらうこともありましたが、母親は100点をとって当たり前だと考えていたので、80点以下だと『何やってんの!』と怒られました。
父親は朝6時〜夜12時まで働いていたのであまり勉強を教えてもらうことはなかったのですが、『さんずいのつく漢字10個書いてごらん?』というように、自分の頭で考えるように教えてもらっていたので、わからないときは辞書を開く癖がつき、漢字が得意になりました」
両親の教育指導の甲斐もあり、成績もよかった山西さんは、その勢いを維持したまま中学校に入ると100点を連発します。2学期に入って栗山町に転校してからは使用する教科書や授業の進度の違いから、「I am TV.」といった英文を書いてしまい、成績が下降するも、NHKラジオで基礎から英語を学び始めて挽回し、成績表の英語・国語の評価は5段階でずっと5、社会・数学・理科も4でした。
勉強に力を入れた結果、高校は進学校である北海道札幌開成高等学校(※現:札幌開成中等教育学校)に進学することができました。
成績はよかったものの、高校入学時は振るわず
こうして高校に進んだ山西さんでしたが、入ったときの成績は振るわず、1学年450人の中で428番からのスタートでした。
ただ、熱心に勉強をした甲斐あってどんどん順位を上昇させ、高1の最後のほうにはクラスの中で3/45位まで上昇しました。
「1年生から硬式テニスをしていたので、練習が終わって、帰ってきてから勉強をしていました。夜の20時から23時まで毎日3時間、少ない日も確実に2時間はやっていたと思います。それもあって、成績は、12位、9位、6位と上がっていき、最後のテストでは3/45位になりました」
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