会社を8年9カ月で退職し、29歳で大和製作所に行き、藤井社長のラーメン学校に1週間限定で通うことになる。藤井社長からいろんなラーメンの技法を直接学び、1つずつ仕事を覚えていった。ある日、夜の9時頃にスープが出来上がり、味見をして納得をしていない半田さんの表情を見ると、藤井社長は寸胴をひっくり返し、朝の3時まで寝ずにスープ作りに付き合ってくれた。
今ではなかなか予約の取れないラーメン学校だが、当時は生徒が5人しかおらず、藤井社長のマンツーマン指導を受けられたことは大きな宝になっている。
山形に戻って、いよいよ自分のお店を開きたいと思い、新庄市の路地裏の住宅街の物件を借り、早速製麺機を購入してラーメンの試作を始めた。新庄のご当地ラーメンである「とりもつラーメン」と豚骨ラーメンを2種類作り、「鶏ラーメン」「豚ラーメン」として完成した。こうして2006年「新旬屋 麺」はオープンした。
「『新』しい『旬』の食べ物を作りたいということで『新旬屋』と名付けました。とりあえずラーメンを始めるけど、いずれラーメンじゃなくなるかもしれないことも考えて『新旬屋』の後ろに『麺』とくっ付けたんですよね。いずれ『新旬屋 飯』とか『新旬屋 肴』とかになってもいいように付けたんです。今思えば優柔不断な性格がモロに出た店名だったと思います」(半田さん)
このお店がちょっとした繁盛店になる。いよいよラーメン屋として人気が出てきたオープンから1年ぐらい経った頃、地元の先輩から、夜にお酒を飲んだ後に締めで食べられる美味しいラーメンがないからやったらいいのではという助言を受け、「ラーメンバー」をオープンする。
「新旬屋 麺」を朝11時から夜8時まで営業し、そのままスープを持って「ラーメンバー」を夜9時から3時まで営業するという不眠不休の生活が始まった。
この「ラーメンバー」が爆発的な人気になる。夜12時でも行列ができているという新庄市では見たことのない光景が広がった。ゆっくりお酒を飲んで、美味しいラーメンで締められるスタイルが人気になり、お店の前には運転代行がたくさん待っている状態になった。
2店舗を融合し、リニューアルした結果
オープンから半年もすると、あまりの人気に近所からは苦情が来るようになり、半田さんは2店舗を移転して融合し、昼から夜間まで営業できるお店にリニューアルした。朝11時から夜3時まで中休みなし、定休日なしで営業をした。しかし、これが大失敗となる。
「そのときは画期的な取り組みだと自分では思っていたんですが、今考えるとやってはいけないことをやってしまったなと思います。朝から晩までいつでもやっていて、ラーメン屋なのか飲み屋なのかわからないお店になってしまったわけで、お客さんからすれば価値観が下がるわけですよね。
夜はうるさいお客さんはいるし、特別感もないしコンセプトもしっかりわからない。そんなことにも気づかず調子に乗ってやっていたら、みるみる売り上げが落ちてしまいました。さらに、当然時間によって作り手も変わるわけで、ラーメンの味のブレ幅も大きくなってしまったんです」(半田さん)
売り上げが下がるなかで、半田さんの本当の戦いが始まった。
続く後編(東京で一獲千金狙うも「酷評」店主の痛切な気づき 山形の超人気ラーメン店「新旬屋」はどう再生したか)では、東京でのイベント出店で受けた酷評を経て、そこからいかに再生していったか、さらには地元への半田さんの貢献についてお届けする。
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