「孫を皇太子にした道長」あまりに強引すぎる策略 第1皇子の敦康親王が皇太子になるはずが…

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道長には急がねばならない理由があった。一条天皇と定子との間に生まれた、第1皇子・敦康親王の存在である。

順当にいけば、敦康親王が次の皇太子となる。道長が外戚になるには、彰子が子を産んだうえに、それが男の子であるだけではなく、第1皇子を押しのけて後継者にさせなければならない。

その難しさを重々理解していたからだろう。道長は、敦康親王が天皇に即位した場合にも、しっかりと備えていた。自ら敦康親王の後見人となり、娘の彰子を敦康親王の養母にさせている。

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それだけに彰子が一条天皇の子を身ごもり、無事に敦成親王を出産したときには、その喜びはひとしおだったことだろう。

生後50日目を祝う「五十日(いか)のお祝い」が寛弘5(1008)年11月に執り行われると、道長は大はしゃぎ。妻の倫子が呆れて退出するほどだった。

道長からすれば、自ら大喜びして、お祝いムード一色にすることで「当然、自分の孫である皇太子になるべきだ」という空気を作ろうしたのではないだろうか。意識したのは、言うまでもなく、第1皇子の敦康親王である。

そう考えれば、のちの藤原伊周の異常な行動も理解できる。伊周は、道長の兄・道隆の息子で、道長にとっては甥にあたる。伊周からすれば、敦康親王は、亡き妹の定子が忘れ形見として残した、一条天皇の第1皇子だ。皇位継承者になるのは、当然だという思いがあった。

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伊周が配流された太宰府。写真は太宰府天満宮(写真: Ay create / PIXTA)

このまま道長にしてやられるわけにはいかない。そんな焦りからだろう。道長が浮かれた「五十日(いか)のお祝い」から約50日後、寛弘5(1008)年12月20日に、今度は敦成親王の生後100日を祝う「百日(ももか)の儀」が開かれた。

藤原行成が公卿たちの詠んだ歌に序題をつけようとすると、伊周はやおら行成から筆をとりあげて「第二皇子百日の嘉辰……」と書き始めた。敦成親王が一条天皇にとって2人目の皇子だ、と強調することで、第1皇子である敦康親王の存在を訴えるパフォーマンスを行ったのだ。

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