「孫を皇太子にした道長」あまりに強引すぎる策略 第1皇子の敦康親王が皇太子になるはずが…

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道長は『御堂関白記』に「人々、相寄(あや)しむ」と不快感をあらわにしたが、道長が喜びを爆発させた「五十日(いか)のお祝い」を受けての、伊周なりのアンサーソングだったのではないだろうか。

人生が暗転した敦康親王の悲劇

そんな奮闘むなしく、伊周は失速していく。寛弘6(1009)年正月30日、彰子や敦成への呪詛が発覚したのだ。

藤原行成が記した日記『権記』では、同年2月4日付で「中宮に厭術(えんじゅつ)を施した法師円能(えんのう)を捕え出した」とあるように、円能という法師が、呪詛を行ったとして捕縛された。

その翌日には、円能に呪詛を依頼したとして、伊周の叔母・高階光子と、伊周の義理の兄・源方理が逮捕。親戚が犯行に及んだことから、伊周は一条天皇から朝参停止を命じられることとなる。

一条天皇としては、最愛の亡き定子の兄である伊周の処分は、避けたかったことだろう。だが、妻の彰子や子の敦成が呪詛され、その対象が道長にも及んだとなれば、かばうことは難しい。苦渋の決断を下したからか、同年2月18日から一条天皇は病悩し、25日には悪化したと『権記』には記されている。

このとき数え11歳だった敦康親王も不穏なムードを感じて、思うところがあったのだろう。一条天皇と同じく18日から体調を崩す。

やがて非情にも、敦康は彰子のもとから引き離される。そのうえ、彰子が一条天皇の子を再び懐妊。予定されていた敦康の元服は延期されることとなった。

同年11月25日、彰子は第3皇子となる敦良親王を出産する。敦成親王については懐妊するまでには時間がかかり、出産自体も難産だったが、敦良親王は懐妊も出産自体もスムーズだった。

道長は藤原実資にこんな思いを口にしたという。実資が残した日記『小右記』(11月25日付)に記されている。

「寅刻の頃から、出産の気配があった。今、この時に臨んで、少しの苦痛もなく、安らかに遂げられた。このたびについては、男女を考えず、ただ平安を祈るのみだった。ところが平安に遂げられた上に、また、男子が生まれたという喜びがある」

(寅剋ばかりより、其の気色気色有り。今、此の時に臨み、幾くの悩気無く、平安かに遂げ給ふ。今般に至りては男女を顧ず、只、平安を祈る。而るに平らかに遂げ給ふ上、又、男子の喜び有り)

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