「孫を皇太子にした道長」あまりに強引すぎる策略 第1皇子の敦康親王が皇太子になるはずが…

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なかなか彰子に子が生まれず、命がけで御岳詣をした日から3年足らずで、状況は大きく変わった。道長の人生が大きく好転するなかで、年が明けて寛弘7(1010)年正月28日、呪詛の発覚から約1年後に伊周は死去。

その年の7月に、延び延びになっていた敦康の元服がようやく行われることになる。敦康は三品大宰帥に任ぜられた。

元服とは、男子が一人前になったことを祝って行う儀式である。だが、敦康にとっては晴れやかさよりも、暗雲垂れ込める我が身に、ただただ不安を募らせたことだろう。

次の皇太子を巡る争い

次の皇太子は敦康親王か、あるいは、敦成親王か――。

寛弘8(1011)年5月22日、彰子のもとに渡った日に一条天皇が病に倒れると、譲位後について、いよいよ決めなければならなくなった。

一条天皇の次に天皇になるのは皇太子である居貞親王だとして、さらにその次に天皇になる皇太子を決めなければならない。

順番でいけば、第1皇子である敦康親王だ。一条天皇も亡き定子との子、敦康親王のほうを跡継ぎにしたがったようだ。スムーズに決まりそうなものだが、道長は行成を通じて、敦成親王を立太子すべきだと提言している。

理屈としては、結局のところ、敦康を皇太子に据えたところで後ろ盾となる者がいない。行成は「皇統を継ぐ者は、外戚が朝廷の重臣かどうか」だと強調。敦康のことを考えると、周囲の支援も十分ではないなかで皇太子にするよりも、年給などの待遇面で優遇したほうが本人のためだとした。

6月13日、一条天皇が譲位をすると、皇太子の居貞親王は三条天皇として即位。同時に、敦成親王のほうが、立太子することになった。

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