【追悼】「生粋の無頼派」福田和也は何者だったか 「文壇の寵児」「保守論壇の若きエース」になり…
私のほうはといえば、これまた他愛ない理由で西部邁と訣別することになった。その経緯は、『評伝 西部邁』(毎日新聞出版)に書いたのでここでは触れない。
文壇、論壇からの福田和也の事実上の退場が、それから何年先のことだったかは、いまや朧気である。
少なくとも私は、疎遠になったとはいえ彼の『昭和天皇』(全7部、文藝春秋)を、一読者として遠望はしていた。
体調を崩した後の彼は、私の仕事など見向きもしなかっただろう。互いの著書の交換も、賀状のやり取りも途絶えて久しい。
実に生真面目で真摯な「無頼派」だった
訃報に接し、俄に甦ってきた若き日の福田の言説に、例えば次のようなものがある。
(『奇妙な廃墟』第4章より)
私はドイツの降伏を前に自殺したこの作家を、ルイ・マル監督の映画『鬼火』の原作者(邦訳は『ゆらめく炎』)として知っていた。
ちなみにこの章のサブタイトルは、「放蕩としてのファシズム」である。私は福田の「放蕩」の軌跡を、具体的に何も知らないが、彼が実に生真面目で真摯な「無頼派」であったことは知っている。
無頼といっても、もはや、太宰や安吾の時代のそれを、私たちは再演すべくもない。
だが無頼の真意が、いたずらに高踏的な知性への反逆に根ざしているとするなら、福田和也こそは、西欧的な「文明の思考」の向こうを張る、「野生の思考」(レヴィ=ストロース)にたけた生粋の「無頼派」であったことを、私はつゆ疑わない。
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