【追悼】「生粋の無頼派」福田和也は何者だったか 「文壇の寵児」「保守論壇の若きエース」になり…

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最初に出会ったのは、新宿の文壇バー「風花」で、彼は『日本の家郷』(新潮社)で三島由紀夫賞を受賞した直後だった。

挨拶は交わしたが未読だったので、早速一読して感服したことを店主の滝澤紀久子さんに伝えると、向こうから「会いたい」という伝言があって付き合いが始まった。

この本は全168ページと小ぶりながら、古典論から現代小説、果ては批評の原理にまで及ぶ本格派に相応しい一冊で、私は柄谷行人以来の大物の出現を疑わなかった。

ただそれ以前に、福田は『奇妙な廃墟』(国書刊行会)という恐るべき処女作を世に問うている。ナチズムにコミットした、フランスのコラボトゥール(対独協力作家)についての研究書である。

「文壇の寵児」「保守論壇の若きエース」に急成長

彼はこの本を方々に送り、首尾よく柄谷行人や江藤淳の眼に止まった。後に彼は、「ちくま学芸文庫」版の「あとがき」でこう述べている。

「本書は、私の最初の文芸評論である、と同時に最後の研究論文でもある」と。そして、「アカデミズムのキャリアを執筆の途中で断念というより放棄してしまった」ことも、書き添えている。

さらに自らの退路を断つかのように、22歳から29歳までの7年間を、本書の執筆のために院生として、また家業を手伝いながら費やしたと記してもいる。

その後の福田和也は、知られるように瞬く間に文壇の寵児にして、保守論壇の若きエースに急成長する。

江藤淳の引きで慶應義塾大学に赴任したのは、アカデミズムでのキャリアではなく、あくまで評論家としての実績を踏まえてのことだ。

何年か先、私も福田に呼ばれてSFC(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス)で、「現代思想」の講座を非常勤講師として担当することになった。

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