大学合格とともに右肩の腱板損傷を治す手術を受けた。東京六大学の雄、慶應義塾大学には全国の有力私学から有名選手が集まる。
「僕の世代はいわゆる“松坂世代”で、早稲田の和田毅(現ソフトバンク)とか、立教の多田野数人とか、のちにプロで活躍した同世代が100人ほどいた。小野高から慶應の野球部に行ったのは僕が最初でしたし、しかも肩の手術をして出遅れた。試合に出るのは難しいかなと思ったのですが、2年生の時に1軍に入れてもらい3年で試合に出て、4年生で一塁のレギュラーとなり4番を打たせてもらうこともありました」
4年の春季リーグではリーグ最多の3本塁打を打つ。プロのスカウトも注目していた。
「東京六大学は、プロに一番近い世界だということは感じていました。プロに行けるかもしれない、でもその反面、慶應は民間企業で活躍しなさいという考えも強かった。それこそ高橋由伸先輩(元巨人)のようにドラフト上位で指名されるのならプロでしょうが、そうでないのなら民間企業に行って研鑽をつむのもありだと。僕はその2軸でずっと考え続けていました。
3年生の冬に監督室に呼ばれて面談をしたのですが、当時の鬼嶋監督には神戸製鋼や三菱重工神戸に行くのはどうだ、と言われたのですが、少し考えさせてくださいと言いました。そして、たまたま翌年1月に、フジテレビの採用試験があると教えられたので、受けて内定をもらったんです。フジテレビは、野球を続ける可能性があるのなら、ギリギリまで待つとも言ってくれた」
つまり、4年生春にホームラン王になったときには、フジテレビの内定をもらっていたのだ。田中大貴氏はテレビ局的には「ドラフト1位」だったわけだ。
23歳で「とくダネ!」を担当
翌年、フジテレビに入局。
「アナウンス部に配属されて、当初は、関西弁しかしゃべれなかったし、アナウンサーになるなんてまったく思っていなかったから、相当苦労しました。正直なところ、2、3年で辞めるんじゃないかと思いました。
でも『情報プレゼンター とくダネ!』という番組で、小倉智昭さんという名司会者に出会ったのが大きかった。番組を作ってくれるディレクターがいて、プロデューサーがいて、最後はよーいどん、で他局の番組と勝負して、次の日に視聴率で数字という結果が出ると、そういうスポーツとよく似た繰り返しで、チームをビルドアップすると言うのが、僕に合っていた。僕でもできるんじゃないか、と思ったんです。23歳で『とくダネ!』を担当し始めて、10年はやろうと決めました」
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