――日本では極東国際軍事裁判(東京裁判)に参加したラダ・ビノード・パル判事が有名です。日本のA級戦犯25人の無罪を唱えたと。
パル判事の判決書は驚嘆だった。しかし、パル判事が若かりし頃に感じたことや、亡くなる前に遺した言葉は今なお刮目すべきものがある。
パル判事は、1905年の日露戦争の日本勝利が、19歳の青年パルに大きな影響を与えたと語っている。「同じ有色人種である日本人が、北方の偉大なる白人帝国主義ロシアと戦って、ついに勝利を得たという報道は、われわれの心を揺さぶった」と。
パル判事は最後の来日となった1966年、朝日新聞に「東洋の政治的復活」と題するメッセージを寄せている。その中で氏は「西洋の『分割して統治せよ』という政策を警戒してください。どんなに大切なイデオロギーのためであっても、分裂してはいけないのです」と述べている。
その3カ月後、パル判事は80歳の生涯を終えた。氏が遺した警告は、現在の世界を的確に認識するうえでも重要な視座ではないだろうか。
日本に微妙な役割を果たし続けた
――戦後、敗戦国となった日本にインドは手を差し伸べてくれました。
敗戦後、国際的な孤立をかみしめ、寂しさに打ちひしがれていた日本人に、インドのネルー首相はインド象・インディラを贈ってくれた。吉田茂首相が出席した上野動物園の贈呈式の様子は、当時、朝日新聞の一面に大きく掲載された。
インドは1951年、アメリカ主導のサンフランシスコ講和会議には参加せず、「日本に駐留しているアメリカ軍が引き揚げるならば、インドは署名してもよい」という条件をつけた。
一方、翌1952年、インドは日印平和条約調印に応じてくれる。これが1955年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)に日本が参加する契機となった。インドは、戦中・戦後を通して日本に微妙な役割を果たし続けた。
私がワシントンに駐在していた1990年代、インド大使館の外交官たちから「日本人は不思議だ」と言われたものだ。「アジアから白人帝国主義を追い出すと興奮していた国が、敗戦国になるや腰砕けになって、いまやアメリカの走狗と化している」と。
彼らの言葉に触れた時、私ははっとさせられた。戦後の日本人は高度経済成長の道をひた走る中で関心事からインドを外してしまい、いつのまにかアメリカを通じてしか世界を認識しなくなってしまったのだ。