これはそうとうにモデル化された話ではあるが、その程度のことは誰でも疑問に思うのではないか?
「相手が自分と同じように考えると思うから、『コミュニケーションが成立している』という勘違いが起きるんだ。場の空気に流されることなく、『なぜ』に『なぜ』を重ねられる人間なんて、私の知るかぎり全体の2割もいないよ」
結局のところ、造船王は「対話に値する相手」とのみ対話する。それ以外の人たちとは、対話以前の問題として「コミュニケーションの成立」に腐心するということだ。
では、「対話に値する相手」と、どのような対話をするのか?
「一緒に会社全体のことを考える。ありとあらゆる意見を出し尽くす。ここでも『何』と『なぜ』が重要だ。『わが社とは何か?』『なぜわが社なのか?』。この疑問から、すべての対話が始まるんだ」
この対話の現場から見えてくるもの
対話による協働といったところで、コミュニケーションが成立しないことには何も始まらない。しかも、人間がさまざまであるように、コミュニケーション成立のレベルもさまざまだ。だから「対話に値する相手」とのみ対話する。造船王の発想は極めて現実的なのである。
だがこれでは、一部のエリートだけで対話をして、全体を動かすということではないか。多様な人々の多様な発想をすべて生かすのが対話の理想であるというのに──憤慨してみたところで、理想だけでは国家も企業も経営できまい。
私事だが、この造船王との議論が、私が教育に転向する一つのきっかけとなった。教育の充実により、「対話に値する相手」の割合を増やそうともくろんだのである。
日本教育大学院大学客員教授■1966年生まれ。早大法学部卒、外務省入省。在フィンランド大使館に8年間勤務し退官。英、仏、中国、フィンランド、スウェーデン、エストニア語に堪能。日本やフィンランドなど各国の教科書制作に携わる。近著は『不都合な相手と話す技術』(小社刊)。(写真:吉野純治)
(週刊東洋経済2011年10月15日号)
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