だが、ゴムは熱くなると融けて悪臭を放つ膠(にかわ)状のものに変わり、冷えるとボロボロになってしまうことがわかると、その熱狂も薄れてしまった。ゴムのレインコートは、夏に着ていると、融けて滴り落ちた。
やがて1839年、チャールズ・グッドイヤーが、融けたゴムの中に誤って硫黄をこぼしてしまった。彼が図らずも作り出し、「加硫ゴム」と呼んだ混合物は、通常のゴムとは違い、奇跡のような特性を持っていた。水を通さないのだ。
だが、この画期的な発明があったにもかかわらず、ゴムの需要はどうしても低迷した(グッドイヤーは、少なくとも20万ドルの負債を抱えて亡くなっている)。
需要が増えたのは、後になってからだった。グッドイヤーの死から20年以上過ぎた1880年代後半に、ジョン・ボイド・ダンロップという名のスコットランドの獣医師が、デコボコした道路を息子が三輪車で滑らかに走れるようにするために、新しいゴムタイヤを発明した。
この発明が、「自転車ブーム」を巻き起こした。1890年にアメリカで生産された自転車は4万台だった。だが、6年後には、その数は120万台に達した。突如、誰もがゴムを欲しがった。
ヨーロッパ人は、富が地面から芽を出すところを夢見ながら、植民地中にゴムの木を植えた。だが、ゴムの木は育つのに時間がかかる。レオポルドは、思いがけない幸運のおかげで自分が文字どおり金(かね)の生(な)る木を所有していることに気づいた。
彼のコンゴの植民地に自生していたゴムの木を利用すれば、ただちに世界の需要を満たせる。あとは、労働者を見つけてそのネバネバした金を採集させ、ヨーロッパに送らせるだけでよかった。
植民地で行われた残虐行為
ゴムがベルギーなどに運ばれたとき、イギリスのE・D・モレルという18歳の運送事務員が、ゴムの船荷について奇妙なことに気づいた。ゴムを買うためのお金が、まったく送り返されていなかったのだ。
その代わり、アフリカに向かう蒸気船の貨物室は、銃と手枷(てかせ)――近代世界からはおおむね姿を消した、拘束用の鎖――でいっぱいだった。モレルは、レオポルドの秘密を発見したのだった。
レオポルドの個人所有の植民地で行われた残虐行為は、賞を獲得したアダム・ホックシールドの『レオポルド王の亡霊(King Leopold’s Ghost)』に、二度と忘れられないかたちで記録されている。
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