中央道・高井戸IC近く「ナゾのトンネル」何のため 歴史を紐解き見えてきた「団地との深い関係」
はじめ、烏山道対協は道路の地下化を日本道路公団と東京都に要求した。烏山道対協設立直後の7月21日には当時の東京都知事の美濃部亮吉氏が世田谷区内で行った対話集会で、都市計画道路を地下化することも検討する旨の発言をした。革新都政で知られる美濃部氏のこの発言は地下化要求の後押しになったようだ。
道路公団からはその後、1970年11月に高さ2メートルの遮音壁と住宅の二重窓化が、翌年はじめに通常の防音壁より高い5メートルの防音壁がそれぞれ提案された。だが、烏山道対協側は騒音対策に関して不十分かつ、根本的な再検討をすることを日本道路公団に求めた。
その後、烏山道対協は烏山道対協、東京都、日本道路公団、東京都住宅供給公社の四者での協議の場設置を求め、1971年12月には第1回四者協議会が開催された。
1972年に入ると、改めて日本道路公団は地下化案を否定。その理由として、地下区間の前後に設ける坂路になる区間の住民が高架建設に比べてより大きな騒音や排出ガスを受ける点、そして既に道路用地を提供した地権者に地下化用の道路提供を依頼することになる点を挙げた。
つまり、烏山北住宅としては騒音・排出ガスの問題は免れるが、周辺地域に押しつけになってしまうということになり、烏山道対協としては地下化案を断念することとなった。
その後、周辺住民から補助219号線の建設を早期に再開してほしいという要望があがり、東京都が暫定的に団地西側を通る松葉通りから西側の暫定開業を模索したことで、一旦議論の中心はそちらに移った。
その間に日本道路公団が検討を進め、1973年3月に提出したのが烏山北住宅を通過する区間にシェルターを設けるという案だった。
シェルター建設を決めた「中央道建設促進」の声
シェルター案は、いくつかの課題がありながらも最終的には承諾されることとなる。その大きな理由となったのは中央自動車道建設促進を求める声が高まりを見せていたことだった。
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