中央道・高井戸IC近く「ナゾのトンネル」何のため 歴史を紐解き見えてきた「団地との深い関係」

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特に強い声が上がったのは、暫定的に東京側の入り口となっていた調布インターチェンジがある調布市からである。調布インターチェンジ周辺では交通量が増大しており、渋滞やそれに伴う騒音、排出ガスの被害に悩まされていた。

そこで調布市議会は1973年6月に調布インターチェンジの閉鎖要望を決議、8月には議員らが実力行使で調布インターチェンジを閉鎖した。当時の建設大臣である金丸信氏はこうした動きを受け、10月に強制的に着工する方針を示した。

そのため、9月中旬には、日本道路公団から烏山道対協に対し、時限付きでシェルター案への回答を要求。さらに日本道路公団は騒音の共同実測などを経て、議論を尽くしたので強制着工も辞さない、と態度を硬化していった。結果、最終的には12月16日に基本協定が調印され、烏山シェルターの建設が決定した。

基本協定調印の翌日からは、中央自動車道の工事が再開。1970年7月から足かけ3年半にもなった工事中止が終了した。

団地の移転先をめぐって反対運動

このように、道路については1973年末に解決を見たが、今度は団地の側で問題が起きる。シェルター建設に伴って日照が著しく遮られる28戸の移転先を巡り、反対運動が起きたのだ。

当初、移転先の住棟建設地候補として団地内にある保育園の西隣にある公園の敷地が適当とされ、代替の公園も整備されることとなっていた。しかし、保育園の父母会から反対の声が上がり、工事の審査請求や実力行使で工事をストップさせた。

移転先の住棟建設予定地だった公園
烏山シェルター建設により日照が極端に悪くなる住宅について、移転先の住棟建設予定地だった公園。保育園の父母会の反対で別の場所に建設されることとなった(筆者撮影)

これについては烏山道対協から住棟建設を急ぐよう四者協議会で要望があり、同じ団地内でも意見が割れる結果になった。

その間にも中央自動車道の工事は進み、1976年5月に中央自動車道の高井戸インターチェンジ~調布インターチェンジ間が開通。新しい住棟建設は、その翌年の1977年6月に烏山北住宅南側の土地を新たに買収することで決着し、1978年1月に住棟が完成し、3月に24戸が入居した。

ここでようやく烏山北住宅と中央自動車道を巡る諸問題について一旦の終わりを見たのだった。

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