そして第3に、彼女らは狡猾(こうかつ)で他者を巧みに操る、権力の強奪者とされる。そして、どうにかして権力の座にたどり着くと、その権力を濫用するという。
2000年ばかり時間を早送りしても、こうした性差別的な言葉は、相変わらず残っている。それがあまりにひどかったので、1915年にはフェミニストの著述家シャーロット・パーキンズ・ギルマンは、『フェミニジア』という小説を書かずにはいられなかった。
この小説の舞台は空想の世界で、そこでは女性たちはもっぱら女の子を産む。男性は存在しない。女性が統治している。ギルマンが想像したユートピアには、戦争も、他者の威圧もない。
女性のほうが指導者にふさわしい?
言っておくが、『フェミニジア』は若干極端に見えるけれど、より多くの女性を指導者の地位に昇進させるのは、公正であるばかりでなく、賢くもあることを、山のような証拠が示している。
ジェンダー本質主義者になるのを避けることは重要だ(ジェンダー本質主義は、男性と女性は根本的かつ相容れないかたちで得意なことと不得意なことがあるとする。女性に対する抑圧を維持するために、何世紀にもわたって使われてきた見方だ)。
だが、平均すると女性のほうが男性よりも独裁的になりづらく、民主的な方法での支配に熱心であることが、多くの研究によって実証されている。
また、想像しうるかぎりのリーダーシップの指標のほぼすべてで、女性は男性と同等以上の成績を収めるというのも本当だ。
ここには皮肉にも、他の要因が絡んでいるかもしれない。それは、現代の男性優位の社会で、女性がトップレベルの役割に行き着く難しさだ。
女性は頂点に上り詰めるまでに男性よりも多くの壁にぶつかるので、出世した女性は、間違ってトップまで来てしまったような凡庸な男性よりも優秀かもしれない。
頂点にたどり着く難しさに見られるこの違いが、データの偏りを生むことがありうる。少数の優秀な女性と、平凡な人が少なくとも一部を占める男性とを比較しているからだ。
要するに、権力を振るうことに関して、男性である利点がないことは明らかだ。それなのに、社会はそのような利点がたしかに存在しているかのように振る舞う。
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