この日の夕飯は、サゴヤシのでんぷんをお湯で練って、ぷるぷるのサゴヤシ団子作ってくれた。味がほぼないのは驚いたが、ココナツミルクで煮た青菜をのせて食べるとつるりと食べられて心地よい。
その翌日はイモ。家の畑でとれたタロイモとヤムイモとプランテン(甘くないバナナ)を何種類かごちゃ混ぜに鍋に入れ、ココナツミルクと水で煮て、青菜を煮たのをのせて食べる。
イモもプランテンもガーデン(ピジン語で畑の意)でとれるカイカイ(食べ物)なので、ガーデンカイカイと呼ぶのだが、ガーデンカイカイはお腹に溜まる。日本のジャガイモや里芋のようにしっとり甘く溶けゆくものではなく、ごわごわのでんぷん質で、八つ頭を3倍濃くした感じ。即時の甘味はないけれど、ゆっくりと滲み出る味わいで、イモ好きにはぐっとくる。体を作るもとになる主食とはこういうものだろう。
この2つが主な主食だが、もうひとつ週1くらいで登場するものがあって、それは米。米はちょっと特別で、それは畑でとれるものではなくて現金が必要だから。しかも近年値上がりが著しく、ますます手が届きにくくなっているそうだ。
仕事、とは?
翌朝は、サゴヤシでんぷんを収集するために森に向かった。村を歩いていると、昼間から男たちとよくすれ違う。「やあ!」なんていうけれど、仕事に行かなくていいんだろうか。すると数十人いるこの村で「現金収入のある9時5時の定職についているのは2人だけ。他の人は、主に畑仕事をして自分の家の食料を育てているんだよ」と文化人類学者の方が教えてくれた。
ああそうか、そうだよな。人間社会って、元々そういうものだ。しかしお金がものを言う社会で育った自分には、現金がなければどうやってほしいものを手に入れるのか見当がつかない。食べるものは畑から手に入るからよいとして、料理のための油や塩、子どもを学校に行かせるお金はどうしているのか。
生活する中で見ていると、畑でとれた農産物を売ったり市場で小さなおやつを売ったりしてお金を得ているようだが、意外だったのは、イモ自体も対価として振る舞い、交換でけっこう生活が成り立っていたことだ。
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